高校1年の冬、友達に勧められたのがきっかけでレイ・ブラッドベリを知った。彼は蔵書から短編集を一冊貸してくれたので、それを読んだ。題名は忘れてしまったが、年季の入った文庫本特有の儚さというか、軽やかさと繊細さと重さを凝縮したような本だった。うーん、題名……ざっと著作を調べたところ、『10月はたそがれの国』が印象としては一番近い気がする。 そういえば、夏には 「異邦人と夏」 という日記も書いていた。カミュの印象は夏だが、ブラッドベリの印象は冬らしい。白い霧がかかったような、薄い散乱光で満たされた森の中、ひんやりと冷たい空気、木々の暗い影と足元で音を立てる乾いた落ち葉と、下り坂の向こうの透明な茶色の沼地。そういうイメージがある。昔読んだ本の内容もほとんど覚えていないし、今読んでいる本もまだ途中だが、イメージは変わっていない。 俺は何を勧めたっけ。残念なことに、そういうことを書いていたスマホのメモ帳が機種変更をしたら空になってしまった。『ブンとフン』とかだった気がする。どうしてこんなに人を選ぶ本を勧めてしまったのか理解しかねる。確か、『虐殺器官』、『きつねのはなし』も勧められて読んだ。あとは何だろう。非常に印象に残っている話もあるのだが、題名が思い出せない。内容を言ってしまうとネタバレになるので言えない。 しかし、何だったんだろうな。分からない。ただ、大学に入ってみたら、周りの人間に読書家が大勢いた高校時代は非常に恵まれていたことに気付いた。読書というのも膨大な数がある趣味の1つであって、大学生でも図書館では勉強しかしないとか、参考文献しか読まないとか、そもそも図書館に行かないとかいう人も案外多い。 広大な本の世界で、自分の知らない扉を教えてくれる友人というものは有難い存在だったのだ。そのことに気付けていなかった。あと、今見れば非常に好みの分かりやすい選書をされていると思う。この嗜好に合いそうな本を自分が知らなかったのも、今になって残念に感じる。今の自分なら、彼にどんな本を勧められるだろうか。 なるほど、読書というものは時間がかかり、タイパ至上主義の現代人には敬遠されるのかもしれない。でも、読書で深まる世界があり、読書をする人との交流で広がる世界がある。著者の数、本の数、読者の数だけ世界がある。こういう情報は時間というコストを払ってでも手に入れたいものだと思う。