朝、大学に向かっていたら、全く面識のない通行人に「死んでほしい、早く死んでほしい」と言われた。言われたというか、吐き捨てられた。近くに他に人がいたでもないし、通行人は普通にこちらを向いていたので、どうも管理人が言われたらしい。ちょっとフリーズしたが、頭の中には「そうですよね、すみません」しか浮かばなかった。しかし大学には行かないといけないし、とりあえずまた歩き始めた。通行人はとっくに歩き去っていた。 やっぱりだめなのか、と思って悲しくなった。死んだら全てが解決する気がしていた(前)管理人はもういないはずだし、このところはちゃんと生きることに希望を持ち、意味を考え、論理的に生きていたはずだ。でも、やっぱりだめなのか。誰かに少し干渉されただけで、崩れるようなものなのか。そういう思想の脆さが悲しかったし、死なないといけないこともある気がするのが悲しかった。今まで積み上げてきた色々な思考は、言い訳に過ぎなかったのだろうか。本当は、まだ根本的な問いに向き合えていなかったのだろうか。 許容する社会と人間がある一方で、そのすぐ裏側には許容しない社会と人間がいる。管理人は、彼に何をしたのだろうか。特に思い付かない。しかし、例えば彼がエコ・ファシズム的な考えの支持者だったとしたら、生産性がなさそうな大学生の管理人を見て殺意が湧くかもしれない。いや、そんなことは関係ない。謎の許容にも意味なんてないのだから、謎の不寛容にも意味なんてないだろう。ただ、管理人に死んでほしいと思う人がそこにいただけだ。そして、管理人が今まで作ってきた哲学のようなものが、また崩れてしまっただけだ。仕方ない。 ただ今回は、やっぱりもう少し生きていたいと思って泣いていた。自分の理念が破壊されたあとでも、死にたくないと思った。自分の中で反響する「死んでほしい」と「死んだ方がいい」に抵抗した。思想が破壊され尽くしたわけではなかったのだろう。いや、そうそう破壊されても困る。今回は、あれだけ時間をかけて形にして、体裁を整えて丁寧に保管してきたのだ。一言二言で粉砕されるものではない。ちょっと欠けたし、それは悲しいけど。まだ死にたくない。生きる価値があるとは言っていない。でも、まだ死にたくない。 生きることはほとんど完全な不条理だ。生きることに理由なんてない。あってもそれは、形容的な遺伝子の呼び声でしかない。社会とか...