二十歳の集いもとい成人式に行った。年々、行事ごとに対する緊張感というか実感が薄れていくのでどうだろうと思っていたが、案外楽しいものだった気がする。もともとは、課題も期末テストも終わっていないのに実家に帰ることは考えられず、また写真撮影は夏の帰省で済ませたので、成人式には出席しない予定だった。しかし、住民票を移しているほうの自治体から案内が来たので、式典だけでも行ってみるかと思って参加した。
会場周辺には、色とりどりの振袖や華やかなスーツ姿の新成人が溢れている。管理人は、バイトなどで意外と活躍している、入学式の時のスーツで会場に入った。式典は(おそらく)ごく普通のものだった。自治体の歌のようなものがあって面白かった。大学に入学してから住み始めた地域なので当然ながら知らなかったが、なにやら明るいいい歌のように思えた。いや、そもそも帰省せずに大学の方の自治体の成人式に出る方が珍しいかもしれない。相変わらず一人だったが、周囲の祝賀ムードを半分他人事のように眺めながら、これも一生に一度か、と思った。
進学や就職を期に転出していた人も多かったのだろう。式典が終わった会場内は、再開を喜び合う声で溢れていた。管理人はというと、正直なところ、それを恐れて地元の成人式に行かなかったところがある。小学校時代の同級生は、おそらく半分くらいが就職して、立派に働いているのだろう。親に学費を出してもらって大学に行っている分際で、課題も終わらせずに彼らに会うことはできないと思った。
これはただ個人の信条だが、そもそも管理人はあの狭いコミュニティのアウトサイダーであったため、いまだに何となく輪に入るのが気まずいという面もある。それに、小学校時代の管理人は未熟者で世の中のことがよく分かっておらず、皆様に多大なご迷惑をかけてきた。よく泣いていたし、空気を読めずに場を乱していた。それも管理人としては、まだ反省しきれていない。それが申し訳ない。いや、あの頃の管理人はもはや存在しないし自分でも理解ができないし、過ぎ去ったことでもあるので謝罪なんて不可能なのかもしれない。だから、今は彼らに会わないことが管理人なりの償いだと思う。
一方で、なぜか地元の成人式に出席していた管理人の親から、彼らの楽しそうな集合写真が送られてきた。小学校卒業以来ほとんど会っていないような人も居たが、全員顔を見分けられた。6年も一緒に居れば、それもそうだろう。残酷なものだ。でも、写真に写った同級生はみんな記憶と変わらない笑顔だった。この対応は、管理人の自己満足に過ぎない。彼らが実際、何が嬉しかったのかも分からない。直接会っていたとしても、相変わらず分からなかったのだろう。そういう人間なのだ。だから、きっとこれが最適解だったのだ。多分。
もちろん、中学の同窓会にも高校の同窓会にも行っていない。ただ、中学校の同級生も高校の同級生も、懐かしいとは思う。これは何なのだろうか。管理人は特に、何かの役に立った思い出はない。人間関係もふらふらと流動させて、ほとんど深入りしてこなかった。何に思い入れがあるのだろうか。錆びついたロッカーの金属製の取っ手? 向こうが見えないカーブした廊下? 吹き抜けの階段? 踊り場の手洗い場? 軋んで音を立てる木製の床? 放送室の扉? 文化祭前の暗い体育館? そういうところにいた人々と学校生活? そういう人生の一場面?
結局、そんなところなのだろう。これが社会性の根源みたいなものなのかもしれない。自分の歴史を多少なりとも大切にすること、自分が所属したコミュニティへの愛着、その構成員を気に掛けること、それらを想起すること。この想起は、想像に近いのではないだろうか。思い出は美化されるというが、その美化のプロセスはやはり脳ミソで起こっている。さらに、想起した内容は何らかの想像にも繋がる。郷愁も卒業アルバムも、人間にとって根幹的には必要なものだし、存在するのも仕方ないものなのだ。きっと。
しかし、成人式で右往左往する新成人を眺め、故郷を思い返して、改めて大人にならないといけないよな、と思った。こんなことはずっと思っている気がするが、今回は他の人々も大人になっていくということと、自分も一応は大人になってきていることを感じることができた。人生は人の数だけあるし、人間は20年くらいで大人になる。我々は、ややもすると「ネットゼロまであと25年しかないの?!」とか「産業革命以降のたった200年そこらで……」とか言いがちだが、そのたった200年の間に生きた人間は数知れず、そしてあと25年の間に生まれて成人する人間も数知れず、ということを忘れてはいけないと思う。
確かにヒトという生物は地球環境問題においては諸悪の根元だが、我々は一人一人が考えながら生きてそれぞれの人生を歩む、ただの人間だ。悲しいこともあるけど、幸福を求めて生きることができる。そういう存在なのである。自分が人生の節目と呼ばれる年になり、それを無条件に祝ってもらえるイベントに参加し、周りの人々もそうであるということに思い至って、人間と環境について改めて考えさせられた。人間と環境のよりよい関係とは、どんなものなのだろうか。それはどうしたら実現できるだろうか。自分にできることは何なのだろうか。
これからも、環境と人間のために考え続けようと思った1日だった。
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