スキップしてメイン コンテンツに移動

窓辺のバレンタイン2025

 ハッピーバレンタインデー!

 どうもこんにちは、クッキーマドロイドです。

 バレンタインの話。


 みなさんチョコ食べてますか? バレンタインですね。管理人は昨日クッキーを大量に作り、チョコを作り、今日は配った残りを食べました。いやー、合法で甘いものを大量に作って食べられる日というのは素晴らしいですね。年に1回くらいあってもらわないと困ります。ホワイトデー? バレンタインに貰えるわけではないので、管理人にはないです……ハイ。

 それはさておき、今年も皆様にバレンタインイラストがあります。2025年はパラレルヘーチラグです。

 これはヘーチラグのパラレルですね。Twitter にも載せてますが、こちらではその設定や裏話などを語っていこうと思います。まずヘーチラグですが、ついでにここにも載せておきましょう。

 こういうキャラです。モチーフは魔法少女(概念)ということで、それぞれ若干不完全な魔法少女をイメージしてデザインしています。サブ要素は芸術家ですが、メインは魔法少女です。オルトは魔法少女擬きって感じですね。キャラ設定を引っ張ってくると、こんな感じです。

名前/正式名称
イメージカラー
武器
好きなフレーバー
一人称/二人称
「自己紹介」
「喜怒哀楽」
喋り方の特徴など
(対戦ゲームのキャラだったら?)
「上限解放」
「勝利」
「敗北」
戦闘スタイル

ヘーチラグ/Hétillag
暗いオレンジ(明るい茶色)
ステッキ
アプリコット
私(わたし)/君
「ヘーチラグです~よろしくお願いします!」
「え~やったー!」
「えっ……えええ……?!」
「そんな……そっかぁ」
「すっごーい!!」
語尾は若干伸ばし気味、ちょっとふわっとした明るい口調。
「そろそろ本気でいくよー!」
「お、やった! 嬉しい~!」
「あー、やっちゃった。お疲れ~」
ステッキで殴る近接攻撃。一撃は軽いが連続で攻撃する。素早さは高め、体力はそこそこ。
遠隔攻撃(ステッキの投擲)。投げたステッキを手元に回収する魔法だけ使えるらしい。

 ステッキを投げてる時点で、まぁ魔法少女ではないですね。Twitter と pixiv に載せた画像では、ステッキを振りかぶっているものもあったと思います。魔法少女にも色々ありますが……とにかく、そういうところでちょっと印象をずらしてあります。一方、パラレルは普通に魔法が使えるようです。短いステッキの真ん中を握っているのも特徴ですね。あれは普通に魔法をかけるために持っているので、投げるようなことはないはずです。

 パラレルの縦ロールは余った魔法で巻いてるようで、普通にしていると髪の重みで伸びるストレートです。伸ばすと先端がハネる髪質のようですね。あと、服の後ろはこうなっています。パラレルは魔法少女によく似た何かを意識して、ウエストマークと切り替えの低さで平成初期な感じを演出しています。今さらですが、スカートは上の画像みたいに大きなフリルの方が二次元みがあっていいかもしれませんね。

 ネガはもちろん闇落ち魔法少女のはずです。アナザーは元魔法少女って感じでしょうか。エタは魔法少女に憧れている段階かなと思います。このへんもそのうちデザインできたらと思っていますね。


 ということで、バレンタインとヘーチラグの話でした。今年はホワイトデーも何かしら描きたいですね。


それではまた。

コメント

このブログの人気の投稿

  管理人の愛は重いらしい。時々言われるので、そうなのだろう。しかし、80億の人間ともっと多くの生物、地球環境、それに自分のと他所の創作キャラの絡みなんかを丸ごと愛せるレベルでなければ、管理人は環境屋をやっていけないようにも思う。ただ、これは別に無理に愛を作り出している訳ではない。愛とは何か。これは、考えること、思うこと、想像すること、形にすること、すなわち思想だと思う。  哲学がフィロソフィア、すなわち知を愛することであるように、愛とは原動力である。そして、哲学という営みの根本にあるのが人間の考えるはたらきであるならば、愛は人間の思索であり思想だろう。何かを考えているとき、そこには何かしらの愛が発生するのではないだろうか。  もしそうでなければ、その時には人間として精神的な危機の状態にあるのかもしれない。何かを積極的に考えて想像することは、人間に特有の行動だ。その原動力が愛なら、愛がなく限りなく機械的な情報処理に近い思考は、人間的ではないだろう。それはおそらく、ほとんど受け身に何かの様式に則って考えている、もしくは生物としての本能に従ってプログラム的に動いているに過ぎないのだろう。  そして、そのような思考を形にすることで、愛はきっと確立される。思考といっても、思想として纏まらない考えや、自分の中に秘めている想いというものもあるだろう。それらが全くもって愛ではないとは言えないとは思うが、やはり何かしらの表現によって形にしなければ、対象に示すことができる愛にはならないのではないだろうか。  愛には形がある。それは、思想を思想として表現できるということである。もし表現できない思考があったとしたならば、それは場合によっては恋なのかもしれない。恋は一方的だ。そして、形をとらない思考、すなわち原動力の源は高カロリーなエネルギーに近いのではないだろうか。恋とは動力源であり、エンジンに対するガソリンである。それ単体では危険で、扱いづらい。しかし、爆発的な可能性も持っているのだろう。  以上から、愛とは思想であり、地球環境と生物のために考えている管理人の愛はやはり地球規模である。1人の人間として、愛していたいと思うし、愛されたいとも思う。贅沢を言えば、誰かの思想を、愛を尊重したいと思うし、自分の思想も誰かに大切にされてほしいと思う。 __________________ ...

日記:宇宙船と冬

 高校1年の冬、友達に勧められたのがきっかけでレイ・ブラッドベリを知った。彼は蔵書から短編集を一冊貸してくれたので、それを読んだ。題名は忘れてしまったが、年季の入った文庫本特有の儚さというか、軽やかさと繊細さと重さを凝縮したような本だった。うーん、題名……ざっと著作を調べたところ、『10月はたそがれの国』が印象としては一番近い気がする。  そういえば、夏には 「異邦人と夏」 という日記も書いていた。カミュの印象は夏だが、ブラッドベリの印象は冬らしい。白い霧がかかったような、薄い散乱光で満たされた森の中、ひんやりと冷たい空気、木々の暗い影と足元で音を立てる乾いた落ち葉と、下り坂の向こうの透明な茶色の沼地。そういうイメージがある。昔読んだ本の内容もほとんど覚えていないし、今読んでいる本もまだ途中だが、イメージは変わっていない。  俺は何を勧めたっけ。残念なことに、そういうことを書いていたスマホのメモ帳が機種変更をしたら空になってしまった。『ブンとフン』とかだった気がする。どうしてこんなに人を選ぶ本を勧めてしまったのか理解しかねる。確か、『虐殺器官』、『きつねのはなし』も勧められて読んだ。あとは何だろう。非常に印象に残っている話もあるのだが、題名が思い出せない。内容を言ってしまうとネタバレになるので言えない。  しかし、何だったんだろうな。分からない。ただ、大学に入ってみたら、周りの人間に読書家が大勢いた高校時代は非常に恵まれていたことに気付いた。読書というのも膨大な数がある趣味の1つであって、大学生でも図書館では勉強しかしないとか、参考文献しか読まないとか、そもそも図書館に行かないとかいう人も案外多い。  広大な本の世界で、自分の知らない扉を教えてくれる友人というものは有難い存在だったのだ。そのことに気付けていなかった。あと、今見れば非常に好みの分かりやすい選書をされていると思う。この嗜好に合いそうな本を自分が知らなかったのも、今になって残念に感じる。今の自分なら、彼にどんな本を勧められるだろうか。  なるほど、読書というものは時間がかかり、タイパ至上主義の現代人には敬遠されるのかもしれない。でも、読書で深まる世界があり、読書をする人との交流で広がる世界がある。著者の数、本の数、読者の数だけ世界がある。こういう情報は時間というコストを払ってでも手に入れたいものだと思う。...