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エンタメと環境

 環境は思想か。

 どうもこんにちは、見習い環境屋マドロイドです。

 生きづらいね?


 本日は早速ですが、イラストを載せます。

 珍しくファンアートですね。こちらは「ラブライブ!」シリーズの新作である『イキヅライブ! LOVELIVE! BLUEBIRD』のキャラクターの1人、山田真緑さんです。今回はこの山田さんについて、環境屋見習いとして色々思うことがありまして、これまた珍しくタイムリーなブログになります。

 まずこの方をどこで知ったのかですが、もちろん Twitter です。万年ツイッタラーの皆様も、もちろんご存じかと思います。山田さんは環境問題について強い危機感を持っており、自然環境保護についての活動をされている高校1年生……という設定のようです(イキヅライブ! LOVELIVE! BLUEBIRD 公式サイトより、以下「公式サイト」)。この設定が物議を醸しているようで、どちらかというと炎上に近いような反応をされているようです。この辺りの構造については管理人も色々言いたいことがありますが、一旦キャラデザの話をさせてください。山田さんが可愛すぎるので。

 前述のとおり、管理人は Twitter でこの方のことを知りました。ただ、「山田真緑」というキャラの名前はよく出てきたのですが、肝心の画像はなかなか流れてこなかったんですよね。やはり見た目も気になったので、公式サイトに行ってみました。うわー可愛い! 管理人はラブライブ! シリーズについては、なんか瞳が丸くてキラキラしている程度のイメージしかなかったのですが、やっぱり可愛い絵柄ですよね。管理人が描くと管理人の絵柄になってしまうのですが、それでも素敵なキャラデザをしています。服と髪型が好きです。あと太眉も素晴らしい。管理人はこういうおっとりした感じのキャラも好きなんですが、山田さんは趣味に共通点があることも相まって、結構刺さりました。あと緑髪も好き。


 という語りは一旦ここまでで置いておいて、本題に移りましょう。環境屋見習いとして、山田氏のキャラ構成に何を思うか? という話です。なんか逆茂木みたいな構成で読みにくいかと思いますが、ツイートがたくさん並んでいると思って読んでください。


・思想が強いという評価/環境思想について

 まず、良くも悪くも片寄ったイメージの環境活動家という感じですね。確かに、日本で一般的に「環境活動家」と聞いて思い浮かべるのは、こういう感じの主張・キャラクター像でしょう。「生きづらい」というテーマを考えれば、世間的に阻害されるイメージが必要でしょうから、その点では妥当といえます。一方で、やはりその一般的なイメージはかなりネットやメディアによってフレーミングされたものというか、必ずしも実態を正確に反映してはいない面があるでしょう。それを作品において「環境活動家」として取り上げることは、その偏見を更に助長することにもなりかねないと思います。

 最近でも、環境問題関連の諸々に興味を持った時点で「思想が強い」とか言われることがありますが、そもそも環境は思想なのでしょうか。これは、ある意味では微妙な問いです。敢えて答えを出すなら、半分はそうである、としかいいようがない気がします。まず、環境分野に限らず学問にはどこかしらに思想的な部分があります。思想が関係なさそうな数学に関しても、興隆の背景には宗教などの哲学的な思想があったりします。環境学に関しては、ダイレクトに「環境哲学」という分野があります。そして、環境に関しては研究や議論が思想(考え方や表現)とともに発展してきた歴史が特に紹介されやすく、思想との繋がりは深いといえるでしょう。

 しかし、環境分野の中には哲学や倫理学だけでなく、物理学、化学、生物学、地理学、経済学、統計学、計画学、社会学、法学、政策学など、様々な分野があります。そして、それらの知見を学術的に総合して「地球温暖化は人類の活動によって引き起こされているし、地球環境に大きな影響を与えている」みたいな事実が明らかにされているわけです。もちろん、思想も含めて各分野はそれぞれ関連性があるし、全体として環境学です。したがって、環境分野において思想は大きなキーワードですが、環境学は思想が入らない事実・データに裏付けられているといえます。

 ……お気付きかもしれませんが、この2段落で話がちょっとずつズレていますね。では、学問の環境分野と思想の話はそういうこととして、次に環境活動という社会運動についての話をします。社会運動を扱う学問分野は比較的限られていると思いますが、環境分野はその一分野です。環境分野が発達してきた歴史について学ぶ際も、環境社会学や環境哲学、環境法について学ぶ際も、環境問題に関する社会運動の話題を避けて通ることはできません。日本でいうと公害に関する社会運動が有名ですし、海外で大規模にデモが行われる様子をニュースなどで目にしたことがある方も多いでしょう。

 そういった環境活動は環境に関する様々な思想から起こされている訳ですから、環境活動家は実際に活動をするほど思想が強い、という言い方もできるかもしれません。これは環境活動に限らずそうなのでしょうが。ただし、そこに至るまでには科学的な事実があり、そこから思想が発達し、運動が起こり、という順番があることが忘れられて、「思想とかいう、運動を起こす物騒なものを抱えている人がいる」みたいな認識をされている気もします。思想というものは論理の集積みたいなものですが、その論理のきっかけには何かしらの事実があるんですね。

 さらに、一応言うと社会運動は過激なものばかりではありません。確かに環境活動家にはスープを投げてみたり道路に転がってみたりする人も居ますが、そういうのが取り上げられがちな(焦点を当てられることが多い)だけで、それこそドイツの緑の党とかは代表の政治システムを利用した社会運動といえるでしょうし、環境NPO もたくさん設立されています。ツイッタラーの皆さんの関心を集める人々ばかりが環境活動家ではなく、環境活動にも様々な形があるわけですね。

 話を戻しますが、とにかく思想が起こす活動が物騒とは限りませんし、思想の裏には何かしらの事実があるわけです。環境という学問分野そのものは思想ではないですが、環境思想というものは環境分野について学ぶ上では重要な知識です。山田さんについては、そういうことを啓発する絶好のチャンスに見えるだけに、分かりやすいテンプレを使うに留めている感じが残念な気もします。ただ、これからこのキャラクターの考え方がどうなるかは分かりませんし、様々な活動の形があることや、学問をしながら活動する道もあることに気づくかもしれませんね。


・そもそも山田さんの認識は正しいか? について

 この方の言っていることは、概ね間違ってはいないでしょう。環境問題は深刻化の一途を辿っており、残された時間は多くないが、普段の生活から変えられる未来もある、という感じです。我々がここ2年ほど勉強してきたとおりです。はい。これは事実についての認識ですね。ただし、方法についてはマイバッグやら発電やら何やらの論争はありますし、専門家でも様々な意見がありまして、何ともいえない感じです。この辺を実践するにあたっては、どういう分野を重要と考えるかとか、現在のところどちらがより適切とされているらしいかとか、色々な判断基準が必要になります。管理人的には、そのなかでも確実なのは何なのかをしっかり確かめることが大事な気はしますね。

 一方で、きっかけの影響なのか、お話が全体的に感情論ベースに聞こえて胡散臭いというものもあります。そもそも、マイクロプラスチックの話は色々省きすぎておかしいようにも聞こえるのですが……その事実関係は一旦置いておいても、やはり間に挟むべきデータとか事実をすっ飛ばしているところがある気がします。山田さんは生き物が好きだそうですが、例えば「海の生物が好き」だから「海の生物を守りたい」という流れがあったとします。この2つの間には「海洋汚染や開発などの影響によって多くの海洋生物種が絶滅の危機に貧している」「海洋においても生物多様性や生態系の保全をすることは、持続可能な社会の実現のために重要である」みたいな事実があるわけです。

 こういう説明を飛ばすと、自分の好きなものをただ守りたいと感情論で主張する人みたいになってしまいます。きっかけは「海の生物が好き」でも何でもいいのですが、そこから2つ目の主張にいきなり飛んでしまうと、誤解を招きかねません。しかし、一方で2行以上の説明を挟むと聞いてもらえなくなることも多々あり、本当に簡潔に言おうとすると、主張のみに絞らざるを得ない場合もあることでしょう。これこそ、良くも悪くも分かりやすいんですよね。まぁ仕方ないか。

 もちろん、山田さんがまだ間に挟まっているものについてご存じでない可能性もあります。管理人も初期のほうはただ漠然と、「自然が好き」という思いと「どうも自然は破壊されているらしい」という情報をくくりつけて、「自然を守りたい」と言っていました。そのうち色々学んでいき、その間が補完されていった訳ですが、誰でも最初はこんなもんだと思います。ずっとこんな感じだと困りますが、ちゃんと専門家から勉強をすれば大丈夫です。そして、これを自分で補完していきたいなら、自分で研究をすればいいのだと思います。

 ということで、高校生のうちから環境活動をする感じでいいんですか? という話です。まず、環境問題をどうにかしたい! と思ったときに考えられるアプローチは、大きく分けて2つあるのではないかと思います。1つは、きっかけとなる思いや分かりやすい実践活動・知識を広めるために活動をする例です。山田さんタイプですね。もう1つは、自分で事実や理論を発見したり掘り下げたりする例です。これが研究者コースですね。最終的にどちらがいいかは、本人の考えと適正次第だと思います。ただし、環境分野に限らずですが、実践と理論のバランスを取ることが大事だと思います。

 もちろん、1人で両方を追求するのは非常に困難です。時々そういう超人的な方もいらっしゃいますが、おそらく頭から足が生えるレベルで努力をする才能と体力がなければできません。現実的にはどちらかです。ですので、ここでいうバランスとは、考え方をどちらかに固定させずに、柔軟に対応する、ということです。活動をする人々には環境という学問を常に学ぶ姿勢が必要ですし、研究をする人には実践の視点や支援が重要になるのではないか、それら全体が環境分野として捉えられ、前進していくべきではないだろうかと思います。

 そのため活動をするにしても、活動をするために学ぶ、そのための基礎的な教養や学問も重視すべきではないかと思います。ですから、個人的には山田さんには大学受験を勧めたいです。特に生物分野に興味がおありなようなので、英語や生物・化学などについて多少専門的な勉強をすることで、そういう論文や報告書を読めるようになると思います。それで主張を補完できますし、最新の情報も掴みやすくなるでしょう。確かに、環境問題には猶予がないし、活動も大切です。山田さんのような若い人の発信は、注目を集めることもあるでしょう。しかし、基礎になる部分を固めることは、後々大きな力になると思います。


 はい、だいたいこんなもんですかね。細かいことを言うと、彼女の発信にも突っ込みどころはあると思うのですが、これは分野の専門家の先生方にお任せしたほうがいい気がするので、管理人からは特に何も言わないでおきます。このへんをちゃんと監修してもらったら、もっといい気がするんだけどな。それこそ読んでもらえなくなる問題はありますし、難しい話ですが。にしても監修してもらったほうがいいのでは?

 しかし、文章が長すぎますね。例とかかなり削ったはずなのに。まぁいつものことですが、どこに提出するでもないですし、自分が読み返せればいいかなという感じです。もしそのうち何かに収録するなら、ちゃんと書きます。これは骨が折れるだろうな。

 ということで、ここまで読んでくださった皆様のためにまとめをします。


・まとめ

〇環境活動家も大概フレーミングされてる

〇環境思想の裏には事実がある

〇活動家は時々、主張に主張を重ねる

〇普通はその間に事実が挟まっている

〇ちゃんと事実を挟んで活動の効果を出すために勉強もしたほうがいい


 以上です。今回はラブライブ! な話でした。一応言いますが、全部ただの管理人の感想です。みなさんも疑問に思われることがあれば、是非ご自身で調べてみてください。ほら、君も環境屋さんになりたいと思いませんか?……ならない? それでも君と話をしよう。なんか、そういうスタンスでやっていけたらいいなと思っています。

 このところ色々忙しくて、いくつか書きかけのブログもあるのですが、どれも書き終わらないまま投稿に随分間が空いてしまいました。今回はあまりにも思うところがあったので、とりあえず書いたら出来上がった感じです。他の書きかけのものも、そのうち仕上げて出したいですね。Twitter は多少動いていまして、4コマを描きたいとかも思っていますし、また何か載せると思います。そんな感じですが、これからもよろしくお願いします。


それではまた。

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