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イラストと現代

 二次元はいいぞ。
どうもこんにちは、概念的改変四次元の住人なマドロイドです。
最近のイラスト界隈についての話です。

 絵描きを名乗る程ではないですが、僕も創作やファンアートの手段としてイラストを描く人間の一人です。そんな絵描き界隈の端の端に生息する何かが見ても、最近という時代は特殊な時代だと思います。そもそも2、30年前は絵描きという趣味が今ほどメジャーでなく、それも狭いコミュニティや隠れた場所での活動に留まっていたのではと思います。ネットという世界の普及でこれだけイラストが市民権を得ているこの時代は、絵描き(広義)にとっては特異だと言えるかもしれないと思いました。


 普及により起こっているのは、良いことだけではありません。


 例えば、トレパク(:トレースによるパクり。線をなぞったり色を抽出したりして、元のイラストや写真を殆ど全て利用したイラストを描くこと。)は最近では某氏の事件が有名ですが、各界隈で似たような騒ぎが毎日のように発生しています。これも、デジタル上でイラストを描き、インターネットに投稿できる現在だからこその問題です。しかし、このトレパクも明確な基準が何かによって決まっているかというとそうではなく、気づかれなければそのまま放置です。

他にも無断転載や無断使用、自作発言もSNSではよく問題になっています。これについては、そんなことをワザワザする人間の心理が理解できないのでよく分かりませんが、これも情報の複製や掲載が容易なインターネットの存在ならではのものです。大方、いいねや反応が欲しいからなのではと思いますが…。そうだとすると、絵描きの界隈が過剰反応するのもその発生の一因になってしまっているのでは、とも思います。

これらは最近になって多発している問題であり、その対応や発生の要請を含めて、これから考えていく必要があるものだと感じます。


 また、どうも「絵を描くこと」「絵であること」事態の意味が狭まってきているように思います。

イラストというものは時代によって流行り廃りの流行がありますが、今日の「よりリアルに近く、現実的でないと上手なイラストとは言えない」という風潮に、僕はあまり賛成できません。例えば、往年の少女漫画に「目が大きすぎる」、ボールが友達の主人公の某漫画に「足が長すぎる」、国民的長寿作品に「首が細すぎる」など、イラストの世界にとっては的外れな指摘が目立つように思います。

(この話を出すと個人的にどうしても思い出してしまうので誤解を防ぐために言いますが、某先生の著書で有名な「空想科学」(SFではない)というジャンルは、僕の批判からは外れています。何故かと言うと、あのジャンルの面白さである「空想の世界を科学的に考える」ことは、「空想の世界は科学的であるほど素晴らしい」という風潮を作るために生まれた訳ではないからです。あくまで空想科学は想像の世界を見る視点の一つであり、それが全てではないと認識しています。よって、空想科学はそれで面白いものだと捉えています。今回僕が問題に思っているのは意識を持つ人間の姿勢の方であり、この関係のトピックを否定しているわけでは無いことをご承知ください。)

イラストを日常的に描かない人にとっては、確かにデフォルメされた人間のイラストは、バランスが崩れた絵だと捉えられるでしょう。しかし、若干趣味でイラストを描く人間からすれば、それはその人の見る世界という概念が二次元という枠に落とし込まれた存在であり、とても興味深いものだと思います。よって、無理に現実的な絵柄を目指して、その人の感じる世界を否定する必要は無いと思います。

むしろ僕は、絵描きの皆さんにはそれぞれに見える世界を大切にしてほしいです。世界は世の中の誰が見ても同じではありません。言い換えれば、全人類は全員、自分だけの世界を見ることができます。それを表現できる「イラスト」の世界で、その景色をぜひ共有してほしいです。本来はそのための、絵描きにとってのインターネットの存在であるものと思います。

「絵を描くこと」は必ずしも全ての人に正しく伝わり、同じように見える絵を描くことではなく、「絵であること」は必ずしもこの世界に完全準拠であることが条件ではない、ということが多くの絵描きの方々に伝わってほしいと思う今日このごろです。


 一方で、写実的な絵にも良さがあります。正確なデッサンやスケッチができることは技術として広く認められる素晴らしい技能だと思いますし、写真と見紛う精密なイラストを描く集中力や観察力も、誰もが持っているものではありません。

このあたりで、どちらがより良い表現方法なのか、という議論は大変不毛に感じられる上、ここ何百年と戦争が続いているようなことなので、僕は言及しません。ただ、とにかく前述している通り、僕はイラストを「その人が見る世界という概念が二次元的に落とし込まれた存在」という認識をしていて、その概念的な多次元小宇宙観に興奮するヤバい奴なので、ありとあらゆる「絵」が「有る」ことが既に性癖だし、あらゆるイラストはもれなく全て刺さります。


 どんな絵もどれもが素晴らしい作品なので、何も否定しません。ただし、そのような作品が不当に使用されたり、そのことで絵描きの方が損害を被ることは許されてはいけないと思います。こうして一人でも絵描きに優しい世界を構築していくつもりなので、絵描きの皆さんは是非安心して絵を描いてください。


 なお、僕の絵はこんな感じです。デジタルに不馴れな上、アナログの線画なしの下書きに色を着けたので見にくいですが、ミクさんを描きました。遅くなりましたが、おめでとうございました。なお、ないとは思いますが無断使用、転載禁止です。ヘッドホンを忘れてますね。南無三。



〔今日の英訳〕

Rather, I want each artists to value worlds that they can see.

(むしろ僕は、絵描きの皆さんにはそれぞれに見える世界を大切にしてほしいです。)


それではまた。


追記(3. 16)

なにやら本文の色が斑になっていますが、原因は不明です。特に意図はないです。

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