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ジェンダーと人類

 虹色は何色?

どうもこんにちは、思考型タンパク質なマドロイドです。

ジェンダー問題についての話。


 概念自体は昔から存在するジェンダー問題。問題の種類にも色々あり、性別役割分業、心と体の性別や恋愛対象の不一致から、そもそもジェンダーという概念について、などなど…。これらが大きく取り上げられるようになったこのごろは、幼少からの刷り込みに大人が躍起になっているようです。

義務教育中盤あたりからジェンダー問題の教育が行われだした世代ですが、学生がどれだけ現象を理解しようとも周りの大人の知識は変わらず、(これも昨日と同じ結論に早くも達しようとしていますが)世代交代が起こらない限りは改善されないだろうと思います。また僕らはネット世代でもあるので、自分たちで情報収集していることも多いです。ネットの知識は不完全かつ玉石混交なので学校で正しい教育が行われることは必要だと思いますが、問題の根本的な解決に繋げるには全体の意識を変えることこそが必要だと考えます。


 まず僕の世界の話をしておこうと思います。そもそも性別というものは生物の染色体が若干違うために物理的な形質が違ってくるものであり、その結果として精神的な所や大まかな見た目が違ったとしても、全人類は同じヒトという動物です。しかしこの「発達の程度や種類が作る見た目の違い」がまぁまぁな曲者なのです。概念的な話が発達していなかった時代に、その見た目による分類と「社会的な存在を説明した言葉」としての分類が一括りの「性別」という概念に纏められてしまったために、様々な問題が発生していると言っても過言ではないでしょう。

そこでこの世界では、生物として色々あるので分ける必要がある「生物学的な性別」と、利便上分ける必要がある「自分が思う自分の性別」を別のものとして設定しています。研究や医学のために人間を分類する必要がある時には前者を、自分を表現する場では後者を、それぞれ記入します。また、生物学的な性別の識別記号として「男女」ではなく「XY」を使います。使い分けはそのままです。ちなみにこのアイデアの本家はなんj民の何方かです。スレを探したのですが、見つかりませんでした…。

この世界なら概念が別々なので、一致しないことがありません。「自分が思う自分の性別」はみんなが好き勝手に決められるので、役割分業もできません。多分、そもそもそんな括りがありません。ただ、これについては「社会的なステレオタイプがアイデンティティー」という人が困るのでは、という考えがあるかもしれません。しかし、全体に強要せず個人でする分には自由だと思います。社会的に存在する概念があることが悪いのではなく、それを絶対的に結びつける風習が悪いのです。


 性別とかいうものも人間の一要素でしかなく、性格や考え方や主張など、他の「人間」を形成する要素と同列だという認識が広まることは、生きやすい世の中を作る手助けになると思います。誰が何で有っても、何を自分のマークとして大切にしてもいい、とにかく自由に「自分」を表現できる世界を作っていけたらと思います。世界規模の精神万歳。


〔今日の英訳〕

Also we are a generation Z, so we often collect information from internet about them ourselves.

(また僕らはネット世代でもあるので、自分たちで情報収集していることも多いです。)


それではまた。

コメント

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