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理系と文系

 文系、理系、体育会系。どうもこんにちは、マドロイドです。

文理の話です。


 普通科の高校生なら多くが経験する文理選択ですが、自分はどちらが向いているのか分からず、選択に迷った人も多いと思います。僕もその一人ですが、そういった立場で今日は、文理選択が前提の教育について意見を述べさせていただきたいと思います(ブログの定型文からのジャブ)。


 まず、個人的には、教育においては文系と理系という枠組みは廃止すべきだと思っています。

早速例えが個人の話で申し訳ないのですが、僕が文系か理系かで迷ったのは、文系と理系で選択できる科目が違うからです。当たり前と言われればそうなのですが、例えば僕が選択したかった「生物」は文系では取ることが出来ず、同じく選択したかった「美術Ⅱ」は理系では取ることができません。しかし、数学が苦手なので「数学Ⅲ」の履修が必須である理系には行きたくない、でも文系では「生物」は選択できないのです。科目選択の悲劇。

結局、一番勉強したかった「生物」を取るために理系に行きましたが、数Ⅲには随分と苦労させられています。数Ⅲの授業では、先生に「理系さんだからこのくらいできて当然です」「これが解けないようなら進路の見直しを勧めざるを得ません」と日々ストレスを掛けられています。

僕のクラスは理系の生物選択者で構成されていますが、生物選択の人は、生物という分野が理科の中でも"組み合わせ"がシステムとして機能している学問(数学や物理は"理論"寄り)であることもあり、どちらかというと文系に分類される科目が得意な生徒が多いのです。実際、僕もテストや模試で高得点が取れるのは地理や現代社会、国語、そして生物です。

ここで若干、知り合いの例も出させていただこうと思います。この知り合いは文系なのですが、数学が得意で科学部の数学班に所属しています。何故この知り合いが文系に進んだかというと、彼の一番の得意教科であり、そのマニアとして有名でさえある「世界史」(世界史B)を理系では選択できないからです。なお部活は歴史部と兼部をしてどちらも楽しくやっているようですが、「模試を文系で受けると数学のウエイトが低いので成績が思ったように伸びない」という嘆きを聞いたことがあります。科目選択の悲劇再び。

僕の場合も数Ⅲが大学入試で必要ならまだしも、僕の目指す進路(環境系統)はそもそも文理の区別が曖昧な分野であり、「生物」「倫理」といった選択で共通テストを受けても出願できる大学も存在します。よって、理系に数Ⅲは必須、という謎の縛りの意味もないのです。

このように、「文理」という枠組みは学問の字面だけで決まっているような物であり、その教科の本質に基づいていないと思います。生徒一人一人の能力に対応し伸ばしていく、興味に沿った選択をしていくために、その枠が取り除かれることが必要だと考えます。

僕の通う高校には、この現象に対応しようとした(のかしたフリをしようとした)のか、三年次に「文理の垣根を越えた科目選択」というような選択科目の枠があり、一見は文系理系に関係なくどちらの科目も選べるかのように見えます。しかしこれがとんだサムネ詐欺であり、実際は文系と理系で選べる科目が決められており、そもそも理系はほぼ全員が数Bを取ることが前提(進路の先生ですらそう発言する)というものなのです。

理系と文系という枠が、学問の面でも教育の面でも、いかに必要ではないかが分かります。


 ちなみに実は英語に「文系」「理系」という枠組みは無く、ではあの辺りの国ではどう分けているかと言うと「Humanities:人文科学」「Science:科学」という分け方をしていることが多いようです。ざっくり言うと、前者は人間の文化を論理的に解釈する学問(哲学、文学、考古学、芸術、など)であり、後者は自然界や人間社会の現象を主に実験などで得た証拠に基づいて理解する学問(自然科学、工学、法学、経済学、など)という分類のようです。

学問の本質の考え方に注目し、ある一定の基準によって分けられていることが分かります。


 しかし僕は、文系と理系という概念を破壊したいわけではありません。文系も理系も体育会系も、その独自のアイデンティティが存在することは間違っていないし、むしろ楽しい文化の一つとして存在していていいと思います(今更の題名回収)。

こんなことを言うと、(最近問題になっているらしい)理系の女性の少なさの原因である偏見に繋がるなどと言われそうですが、それは精神が小さいからそう思っているだけだと思います。文系理系という、一つのキャラクターとして成り立つこの概念と、それぞれに所属する学問としての科目は、別のものであるとの認識が無いから偏見に繋がるという考えに至るのです。この理論で行くと、偏見に繋がると言っている人が一番偏見を持っています。偏見のない人はここを切り離して考えているので、そもそも偏見という考えに至りません。

ただ、文系に行きたい人が文系に行き、理系に行きたい人が理系に行ける仕組みと体制は必要だと思うし、そもそもこの枠をやめろとさっきから書いていた気もするのです…。


〔今日の英訳〕

It seems to be difficult for almost all high school students who goes to an ordinary course to choose their major subjects. And many of them felt it is difficult because they do not know which one is better for them. 

(普通科の高校生なら多くが経験する文理選択ですが、自分はどちらが向いているのか分からず、選択に迷った人も多いと思います。)


それではまた。


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