🏷️日本が核を持たない理由
どうもこんにちは、放射性マドロイドです。
色々話題の核兵器についての話。
某国が使用をチラつかせたことにより、地球の皆さんが若干ざわついている核兵器。日本は持っていませんが(なお非核三原則)、安全保証条約を結ぶアメリカを始めとし、某相対的北国からお隣中国、また、インド、パキスタン、イスラエルからヨーロッパではイギリス、フランス、と、保有(を公言している)国はちらほらと見受けられます。
まぁ日本はスリリングな立地をしてますね…。どこかが発動したら、その迎撃から始まって「日本は核の炎に包まれた!!」どころの話ではなく、ばっちり焦土化すれば(土地が残っていれば)まだマシですが、(本当に来るかはともかくとして)アメリカ軍と中国軍の戦場になって国自体が跡形も(物理)無くなりました…、みたいなことになりかねません。
そんな核兵器ですが、よく考えたら現在侵攻形で戦争をやっている某国を含めた核兵器保有主要国の5ヶ国がウクライナ情勢が大きく取り上げられる少し前の今年1月始めに、「核戦争に勝者はない」との共同声明を出しています。三が日最終日でコタツで寝ていた人も多いかと思いますが、当時の僕は新聞の国際欄を切り取ることに熱中していた(ウクライナ情勢の記事が他の欄に現れだして追えなくなり、記事が大きいので保管に困りだした頃からストップした模様)ため、何やらスクラップが残っています。今見返すと、皮肉なのか煽りなのか舐めプなのか…。
また、今も活動が続いていますが、その少し前には「核兵器禁止条約」なるものの批准についての議論も取り上げられていました。日本はするのかしないのか、…という話です。読んでいる新聞の種類の問題かもしれませんが、どうも「批准しないなんてこの国でなし」みたいな雰囲気があるように思います。
6月にオーストリアで会議が行われるようですが、あの国は永世中立国でもあり、この条約も批准しています。ただ、永世中立国がいつでもスーパー平和国家かと言われるとそんなこともなく。例えばオーストリアも編成と戦いが歴史を作った国ですし、スイスもあの位置で中立を保ち続けられているのは銃やナイフの一大生産地であるから(どこも逆らえない)、という所もあります。兵役もばっちりあります。それぞれ、綺麗事だけでない事情が色々あるのです。
そこで、日本と戦争、核兵器を巡る雰囲気について考えてみようと思います。
そもそも、ただ「平和平和」と言っている国は世界にたくさんあり、しかしその中で交戦権を完璧に放棄しているのは日本だけなのです(いらないから軍隊を持っていないという国はあるが、その権利から持っていないのは日本だけ)。こんな特殊国家であり、かつ軍事大国であるアメリカの支配下に一時居たり、今でも安全保証条約を結んで万が一の時には守ってね、と約束している国であるので、議論は難しい所だと思います。その割りには一般人の意見が一辺倒な気もしますが。
しかしそれも仕方のないことであり、核兵器を使用された(2022年4月5日現在のところ)唯一の国であり、敗戦国でもある日本に住む人間は(各種教育も功を成し(能動))「戦争根絶!核兵器廃止!」と言いたくなるのです。平和主義者や博愛主義者は世界各国に居ると思われますが、ここまで国民思想のスタンダード仕様な国も珍しいでしょう。このように刷り込み的に、不思議と一般国民の意見はだいたいまとまるのです。
ここから日本の核兵器禁止論について考えてみます。
禁止派はやはり、その使用が引き起こす被害の悲惨さを強調します。しかしここには、少々理解が難しい要素が入っています。個人の話になって申し訳ないのですが、管理人は人間の感情のやりとりについて、社会的な暗黙の意味や裏の意味を捉えることをしません。よって、人間関係も機械的に捉えていることが多いです。なので、「戦争になって隣の人が死んだら悲しいよね」という事象は理解しますが、実感として沸きません。自分は死んでも構わないと思っているし、コミュニティはグラついている(前途ある弟の未来ために死ぬなと言われた過去)ため、どうも悲惨さが正確に伝わってきません。これは個人の感想なので、そこまで重要ではありませんが、こういう思想もあるわけです。
またこれは予想に過ぎませんが、もし現代で核戦争になったら、広島・長崎に投下された骨董品のような爆弾が使用される可能性は極めて低いと思われるので、悲惨も何もなく、本当に何もなくなるのではと思います。それを見て「悲惨」だと認識できる人間は一体どれだけ生き残っているのでしょうか。その人間がどれだけ生き長らえることができるのでしょうか…。
というわけで、この議論がどこまで有効かには疑問があるのです。
また、「囚人のパラドックス」と呼ばれる理論を使って「核の抑止力」について言及してある場面もよく見かけます。相手が核兵器を持っていることに対して、自分も核兵器を持っていることで対抗し、この状態なら双方が核兵器を使うことはないはず、という希望的観測論です。禁止派はこれに対して、ならどちらも持たなければ平和じゃないか、と言います。単純明快でその通りです。
しかし、核兵器というものは核分裂によるエネルギーを利用する兵器であり、刀狩りのように回収してリサイクルして終了、というわけにもいかないのです。各国が原子力発電の副産物を何処に処理するか考えあぐねているように、核兵器も処分しようと思うと同じ問題に直面するのです。よって、この世の核兵器をすべて分解して処分して無くしてしまおう、という考えは非現実的であり、そのような議論も限りなく意味が薄いのです。今のところそれらの処分としては爆発させるか埋めるしかないので、これ以上作らないことに越したことはないのですが。
加えて、前述のように日本はアメリカと安全保証条約を結んでおり、所謂その「核の傘」に入っています。ここに居る選択をする以上は、核兵器禁止条約を批准することは難しいでしょう。ちゃんと傘に入れているのかは疑問ですが、仮にここから出たとして、それを確認することで日本がピンポイントで滅ぶ可能性はなきにしもあらず…。結局滅びるなら同じな気がしなくもないですが。
使われてしまえば何もなくなるし、けれどもそれは人間のエゴ視点の現象として起こる、核戦争。これを巡る人間とその人間を動かす世界情勢がどうなっていくのかは分かりませんが、「歴史」とかいう台本無し、ぶっつけ本番で常に生成され続け、レギュラーも古参も存在しないという地球の構成要素の中でも特殊なジャンルの事なので、どうなるかは未来に振り返ってみないと分かりません。
僕たちは明日に向けて、核戦争が唐突に起こって死んでいるかもしれないし、界隈が違いますが南海トラフ地震が起こって死んでいるかもしれないし、もっと理不尽に死んでいるかもしれないという可能性を持っています。核もそのようないつか来る滅びの要素の一つであり、それを減らしたい人間の心中もあるのでしょうが、果たして自分たちの世界の理想を押し付けただけでその主張が通るのだろうか、とは思います。
流されて生きることを強く肯定するわけでも、流れを阻害したり変更したりすることを強く勧めるわけでもないですが、まぁ人間という概念は儚いものだよな、とは常々感じます。そういう僕らには、できることもすべきこともそんなに無いし持たされていないとは思いますが、こうやって意味もなく思考するのは勝手にできることだと思います。「人間」という全体のことはどうだか知りませんが、「隣のあなた」や「自分」という単位が限られた時間でかりそめの幸福を掴めるように頑張ってみるのも面白いんですかね。
〔今日の英訳〕
Also, people who oppose nuclear weapons are always emphasize the terrible damage caused by being used them.
(禁止派はやはり、その使用が引き起こす被害の悲惨さを強調します。)
それではまた。
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