スキップしてメイン コンテンツに移動

KMMの話 2

 主語デカ。
どうもこんにちは、地球規模のマドロイドです。
またしでかしてますね。

 何回目ですかね。美術館の絵画にいたずらをする環境活動家の人々の話です。
ヨーロッパでは、環境活動家による美術館の展示品の絵画への攻撃がしばしば行われ、そのたびにニュースになっています。6月14日にも、スウェーデン、ストックホルムの美術館でクロード・モネの作品「ジヴェルニーのモネの庭」に赤い塗料が塗りつけられる事件が発生しました。
なぜ美術作品を標的にするのか、汚す手段として使われるものに込められた意味、など様々なポイントがありますが、今回述べるのはその行動に対する世間の反応や考えの変化についてです。

 ところで、私は今回の件についてはTwitterで知ったのですが、過去の事例もSNSやニュースサイトで確認しています。各記者の方々の書き方はともかく、どうもコメントを見ていると毎回同じような意見が多くの同意を集めています。書き方はいろいろありますが、要するに「あなた方が着ている服、使っている塗料(やその他の物質)は、何からできていてどうやって作られているのか。石油を使ったり環境破壊の原因になっていないと言い切れるのか。」というようなものです。
これに関して私が思うのは、じゃあそのコメント主が同じことを言われたらどう返すのか?ということです。書いた人としては行動の矛盾を突きたかったのだと思いますが、同じく環境を守っていかないといけない人間としては、(本人が認識しているかどうかは別として)ブーメラン的に自分の発言が返ってきてしまっています。

 しかし、地球上の人類の多くが囚われている現在の消費社会には、構造的な限界が存在していることも事実です。例えば食料の場合、マイバックやエコバックは普及しましたが商品はほとんどがビニール袋に包まれており、私たちはそれを買わざるを得ません。同じように、来ている服から移動手段まで様々なものが構造化された選択肢として提供されており、その不可視性の檻に「あたりまえ」のカバーをかけた状態が現代の消費社会です。その中にいることに気づかずに、私たちは生活しています。檻のどの部分かはいろいろありますが、そのある一部分に手を伸ばして初めて、私たちは囚われていることに気づくのです。

 では、これらの不可抗力にあふれた世界で環境問題に個人が対処することはできないのでしょうか。私はそんなことはないと思います。環境活動家の小さな矛盾を突く発想で、日々の暮らしで改善できる点を見つけていけばいいのです。
いわゆる「自然派」になろう、と言っているのではありません。どちらかというと、あの世界は時々するやらかしのせいでいい印象を持たれていません。では何になれと言っているかというと……という問題ではないのです。
例えば、カカオ農家が生産した豆を適切な価格で買っている業者のチョコレートを買うとか、輸送コストの小さい地元産の野菜を買うとか、過剰包装されたものは避けるとか、その程度のことです。私たちは前述の檻の中で暮らしていますが、それでも選択肢がゼロというわけではありません。

 私たちが暮らすグローバル社会は、オープンなように見えて様々な障壁と檻がひしめいています。物理的なものではないので、物理的に壊すことはできません。しかし、少しずつ変えていくことならできます。一度「無知のヴェール」でも引っ被ってみて、本当の「あたりまえ」の世界を見てみたらいいと思います。身近に考えてみるのもいいでしょう。いえ、そんなことをせずとも、適正な方法で行われた取引の結果得られたものを買うべきだとか、(実現できるかはともかく)どう考えてもあたりまえです。

 おそらく私たちの世代は、この「あたりまえ」の意識の転換点に来ています。遅かったですね。でも、私たちが乗り越えれば、次の新しい世代の標準を作ることができるでしょう。ほかの分野で先人たちがやってくれたことであり、これからの時代を生き、未来を作っていく私たちの使命でもあります。くれぐれも、やけくそになってやたらとストをやったり、絵を汚したりしないように……社会派グリーン&エコな活動を地道に続けましょう。難しいことはないです。単純に考えて、前述のような消費行動をとるだけでも、変わる世界はあるはずです。
あとは理系屋の皆さんへ。応援してます。私はその正当な道からは離脱してしまいましたが、知識の吸収と理解だけは続けていきます。約束します。科学立国失敗とか言われて久しいですが、システム上なんかおかしいだけで、芽生えがゼロになったのではないと信じています。理論の下支えはお手伝いできると思います。その代わりに、(実現できるかはともかく)という技術的な面を改善してほしいのです。もちろん、なんか違うな……と思ったらそう言いますが。逆に皆さんも、なんか違うな……となったらご指摘いただけると助かります。まあなんというか、協力して頑張っていきましょう。

 全国の朋輩諸君! 検討を祈ります。

それではまた。

コメント

このブログの人気の投稿

  管理人の愛は重いらしい。時々言われるので、そうなのだろう。しかし、80億の人間ともっと多くの生物、地球環境、それに自分のと他所の創作キャラの絡みなんかを丸ごと愛せるレベルでなければ、管理人は環境屋をやっていけないようにも思う。ただ、これは別に無理に愛を作り出している訳ではない。愛とは何か。これは、考えること、思うこと、想像すること、形にすること、すなわち思想だと思う。  哲学がフィロソフィア、すなわち知を愛することであるように、愛とは原動力である。そして、哲学という営みの根本にあるのが人間の考えるはたらきであるならば、愛は人間の思索であり思想だろう。何かを考えているとき、そこには何かしらの愛が発生するのではないだろうか。  もしそうでなければ、その時には人間として精神的な危機の状態にあるのかもしれない。何かを積極的に考えて想像することは、人間に特有の行動だ。その原動力が愛なら、愛がなく限りなく機械的な情報処理に近い思考は、人間的ではないだろう。それはおそらく、ほとんど受け身に何かの様式に則って考えている、もしくは生物としての本能に従ってプログラム的に動いているに過ぎないのだろう。  そして、そのような思考を形にすることで、愛はきっと確立される。思考といっても、思想として纏まらない考えや、自分の中に秘めている想いというものもあるだろう。それらが全くもって愛ではないとは言えないとは思うが、やはり何かしらの表現によって形にしなければ、対象に示すことができる愛にはならないのではないだろうか。  愛には形がある。それは、思想を思想として表現できるということである。もし表現できない思考があったとしたならば、それは場合によっては恋なのかもしれない。恋は一方的だ。そして、形をとらない思考、すなわち原動力の源は高カロリーなエネルギーに近いのではないだろうか。恋とは動力源であり、エンジンに対するガソリンである。それ単体では危険で、扱いづらい。しかし、爆発的な可能性も持っているのだろう。  以上から、愛とは思想であり、地球環境と生物のために考えている管理人の愛はやはり地球規模である。1人の人間として、愛していたいと思うし、愛されたいとも思う。贅沢を言えば、誰かの思想を、愛を尊重したいと思うし、自分の思想も誰かに大切にされてほしいと思う。 __________________ ...

窓辺のバレンタイン2025

 ハッピーバレンタインデー!  どうもこんにちは、クッキーマドロイドです。  バレンタインの話。  みなさんチョコ食べてますか? バレンタインですね。管理人は昨日クッキーを大量に作り、チョコを作り、今日は配った残りを食べました。いやー、合法で甘いものを大量に作って食べられる日というのは素晴らしいですね。年に1回くらいあってもらわないと困ります。ホワイトデー? バレンタインに貰えるわけではないので、管理人にはないです……ハイ。  それはさておき、今年も皆様にバレンタインイラストがあります。2025年はパラレルヘーチラグです。  これはヘーチラグのパラレルですね。Twitter にも載せてますが、こちらではその設定や裏話などを語っていこうと思います。まずヘーチラグですが、ついでにここにも載せておきましょう。  こういうキャラです。モチーフは魔法少女(概念)ということで、それぞれ若干不完全な魔法少女をイメージしてデザインしています。サブ要素は芸術家ですが、メインは魔法少女です。オルトは魔法少女擬きって感じですね。キャラ設定を引っ張ってくると、こんな感じです。 名前/正式名称 イメージカラー 武器 好きなフレーバー 一人称/二人称 「自己紹介」 「喜怒哀楽」 喋り方の特徴など (対戦ゲームのキャラだったら?) 「上限解放」 「勝利」 「敗北」 戦闘スタイル ヘーチラグ/Hétillag 暗いオレンジ(明るい茶色) ステッキ アプリコット 私(わたし)/君 「ヘーチラグです~よろしくお願いします!」 「え~やったー!」 「えっ……えええ……?!」 「そんな……そっかぁ」 「すっごーい!!」 語尾は若干伸ばし気味、ちょっとふわっとした明るい口調。 「そろそろ本気でいくよー!」 「お、やった! 嬉しい~!」 「あー、やっちゃった。お疲れ~」 ステッキで殴る近接攻撃。一撃は軽いが連続で攻撃する。素早さは高め、体力はそこそこ。 遠隔攻撃(ステッキの投擲)。投げたステッキを手元に回収する魔法だけ使えるらしい。  ステッキを投げてる時点で、まぁ魔法少女ではないですね。Twitter と pixiv に載せた画像では、ステッキを振りかぶっているものもあったと思います。魔法少女にも色々ありますが……とにかく、そういうところでちょっと印象を...

日記:宇宙船と冬

 高校1年の冬、友達に勧められたのがきっかけでレイ・ブラッドベリを知った。彼は蔵書から短編集を一冊貸してくれたので、それを読んだ。題名は忘れてしまったが、年季の入った文庫本特有の儚さというか、軽やかさと繊細さと重さを凝縮したような本だった。うーん、題名……ざっと著作を調べたところ、『10月はたそがれの国』が印象としては一番近い気がする。  そういえば、夏には 「異邦人と夏」 という日記も書いていた。カミュの印象は夏だが、ブラッドベリの印象は冬らしい。白い霧がかかったような、薄い散乱光で満たされた森の中、ひんやりと冷たい空気、木々の暗い影と足元で音を立てる乾いた落ち葉と、下り坂の向こうの透明な茶色の沼地。そういうイメージがある。昔読んだ本の内容もほとんど覚えていないし、今読んでいる本もまだ途中だが、イメージは変わっていない。  俺は何を勧めたっけ。残念なことに、そういうことを書いていたスマホのメモ帳が機種変更をしたら空になってしまった。『ブンとフン』とかだった気がする。どうしてこんなに人を選ぶ本を勧めてしまったのか理解しかねる。確か、『虐殺器官』、『きつねのはなし』も勧められて読んだ。あとは何だろう。非常に印象に残っている話もあるのだが、題名が思い出せない。内容を言ってしまうとネタバレになるので言えない。  しかし、何だったんだろうな。分からない。ただ、大学に入ってみたら、周りの人間に読書家が大勢いた高校時代は非常に恵まれていたことに気付いた。読書というのも膨大な数がある趣味の1つであって、大学生でも図書館では勉強しかしないとか、参考文献しか読まないとか、そもそも図書館に行かないとかいう人も案外多い。  広大な本の世界で、自分の知らない扉を教えてくれる友人というものは有難い存在だったのだ。そのことに気付けていなかった。あと、今見れば非常に好みの分かりやすい選書をされていると思う。この嗜好に合いそうな本を自分が知らなかったのも、今になって残念に感じる。今の自分なら、彼にどんな本を勧められるだろうか。  なるほど、読書というものは時間がかかり、タイパ至上主義の現代人には敬遠されるのかもしれない。でも、読書で深まる世界があり、読書をする人との交流で広がる世界がある。著者の数、本の数、読者の数だけ世界がある。こういう情報は時間というコストを払ってでも手に入れたいものだと思う。...