ホームシック。
どうもこんにちは、扶養控除マドロイドです。
人間は一人だ。
いつの間にか独り暮らし8か月目ですが、最近は1周回って家事が楽しくなってきました。弁当は毎日作ってますし、掃除も毎朝してますし、洗濯もしてます。冬は日当たりが悪くて乾きにくいのが難点ですね。
大学には実家勢の知り合いもまあまあいる(所属してる学部は比較的多い)のですが、そのうちの一人がかなりの時間をかけて通学してるんですよね。時々「せっかく来たのに授業がオンラインになった」と愚痴っているので学校の寮に住まないのか聞いてみたら、「俺はホームシックになるから絶対に家から通いたい」って言うんですよ。そういえばこの人は以前、「本当は民俗学をやりたかった」と不思議なことを言っていたので、どうしてこの学校のこの学部に居るのかと思っていたのですが、どうもそういうことらしいです。通学圏内の国公立で入れそうな学部……と。(この学部は珍しいが需要がある学部のはずなのに、知名度がなくて偏差値がそんなに高くないために以下略という話もこの辺に絡んでくるようですがそれは置いておいて、)なるほど、ホームシックというものは人によってはそんなに重症化するものなのか、と思いました。
僕はと言えば、実家が山の中過ぎて通学圏内に国公立大学がなかったので前提は違いますが、ホームシックになる可能性を考慮したことはありませんでした。今でも一人で家事をして、課題をして本を読んでゲームをして文章を書いています。友達もそんなに居たことがないですし、あまり一人であることに抵抗感は感じないように思います。認識できていないだけという可能性はありますが。家族も個人性が強い傾向がある気がします。悪く言うと自分勝手な面があるということですが、その傾向はそこまででもないように思います。ただ、特に親二人は法律上の関係こそあれ赤の他人……と、どちらの口からも別々に聞いたことがあるような勢いなので、二人ともどちらかというと個人主義的なのだと思います。我々兄弟は、年月を経るにつれてオタク仲間っぽくなってきた気がします。昔は(周りに人が住んでいなさ過ぎて)お互いしか遊び相手がいなかったので常に二人で遊んでいましたが、成長してからはさすがにそんなことはなく、適当に距離を取っているということです。
友達もそんなに居ないわけですが、でもその中にかなり仲がいい友達が居まして。で、この前その友達と「違う冬のぼくら」というプレイヤー二人用のパズル系ホラー(?)ゲームをしたんですよね。彼は時々TRPGをしたり、なんとなくLINEをしたりする友達なのですが、ふと、彼が居なくなったら孤独だろうなと思いました。親が死んだら、兄弟が死んだら、祖父母が死んだら、みたいな縁起でもないことを考えることがあるのですが、どうしても自分のロールしか浮かばないんですよね。実感がないというよりは、死んでもなにも思えなさそうというか。
血のつながりというものは道みたいなもので、現れては繋がって伸びて消えていくもので、生物ならそういう定めを生きているわけですよね。でも、友達はそうじゃないじゃないですか。脳みそで考えた結果というか、感情とか認識の証拠というか、その系統ですよね。あ、脳みそだってもちろん遺伝子のコードを天然3Dプリントしたものではあるんですが、でも人間の脳みその僕エディションを持っているのは僕だけであり、それはある意味特別な事なんじゃないかとも思うんですよ。機械的な生物学的普遍性のあるルールブックの存在と、それを実際に適用して生きる人生はまた別物だなと。それが延長線上だから実質一体だと思っていた時期もあったし、その発想に救われたこともありましたが、今はそうでもないかもしれないなと思います。
件の友達ですが、相手がどう思っているかは分からないにしても、僕は生涯の友達になるんじゃないかと思っています。ある時、部活もクラスも選択科目も一緒だったので、かなり長い時間一緒に居ました。今まで生きてきて、特定の誰かとあんなによく一緒にいたことはないんじゃないかと思いますね。なんだかんだ彼も一人で居た時間のほうが長い学校生活を送ってきたようで、「朝学校に来て本を読んで、昼休みも休み時間も本を読んでいたらいつの間にか放課後で、『あれ、今日一日誰とも喋ってないな』ってなることがあった」というエピソードには大変共感できました。あと、初めて誰かと旅行に行きたいと思ったんですよね。僕は今年の夏に、帰省がてら旅行をしていたのですが、その時にぼんやりと思いました。一人旅も楽しかったし充実したものではあったのですが、それとは別に、例の友達とどこかに行けたら楽しいだろうなと思ったんですね。この発想が具体的に何を目的としていたのかは今でもわからないのですが、とにかく同じく帰省中だった友達を誘って、日帰り旅行に行きました。楽しかったです。
これは孤独ではなくて、そこにあるものを求めた感覚ですね。さみしいからではなく、一緒に行けたら楽しいだろうなというプラスの発想です。追加された要素だから失いたくないんでしょうか。失いたくないというか、居なくなったら嫌だなというか。よく分かりません。友達にこんなことを思うのは初めてなので、まだまだ解像度が低いです。青春ジュブナイルみたいな小説を読んでこなかったせいか、こういう感情を言語化する表現と語彙がないのかもしれません。もっといろいろ読むべきでしたね。そしてどうも最近、自分が「生きること」について社会的、精神的な面を重要視しているのではないか、という気がしてるんですよね。その辺も併せて、とにかくまだ理解できていませんが、将来後悔しないように友達を大切にしようと思います。
ちなみにこの話にオチがつくとしたら、「例の友達のウィッシュリスト(STEAM)にデスゲーム系シュミレーションがまた増えていた」です。
それではまた。
PS.
お久しぶりです。課題とレポートに追われていましたが、コミケの原稿やグッズはどうにかなりそうです。この前はアクリルキーホルダーが届いたのですが、なかなかいい出来でした。大晦日のビッグサイトでよろしくお願いいたします。あ、現地にいるのは売り子さんですが。
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