バックルーム小説 第二話
「Kの読書日記」
夢を見ていた。黄色い部屋に迷い込む。酷い雑音、狂気に満ちた黄色い視界、果てしなく続く部屋、部屋、部屋。必死に出口を探す。ふと、一つのドアを見つける。開けて、飛び込む。帰ってきた……。
目が覚めた時、俺は一瞬だけ期待をした。昨日の出来事は夢で、本当は事故にでも遭ったんだろう。悪い夢だ、そうだ。忘れてしまおう……そうしてゆっくりと目を開く。
徐々に意識が浮上し、……あの不快なバズ音、蛍光灯のちらつき、濡れたカーペットの悪臭、そして、ただどこまでも黄色い視界、……これは夢ではない。どうやら、今はまだこのふざけた現状を現実と言うしかないらしい。一体何時間寝ていたのか、そもそも朝なのか昼なのか夜なのか、そんなことすら分からない、この狂気のような黄色い世界を。
昨日は色々なことに疲れて眠ってしまったが、今となっては逆に正気になりつつあるのか、俺は妙に落ち着き払っていた。怒りや戸惑いより、呆れの方が大きい。
そうなってくると、今度は自分が空腹であることに気付いた。そういえば、朝食を摂っていない。早起きすればこんなことにはならなかったはずなのに……弁当すら持っていないのだ。しかたなく、リュックサックのポケットから完全栄養食のクッキーを取り出した。半分だけにしておいた方がいいだろうか。水はいつまで持つだろうか。虚無感と孤独感の中で、俺はモソモソとクッキーを齧った。
食べ終わったが相変わらずやることがない。座っていても落ち着かないのでフラフラと歩いていた。といっても向かう当てもないし出口も分からないのだが、じっとしていると黄色い視界とバズ音に感覚が支配されて頭がおかしくなりそうだった。歩いていれば辛うじて、自分で自分の体を動かしているという認識で正気を保つことができるような気がした。
ふと、俺の耳は今までの雑音でも自分の足音でもない、何らかの物音をキャッチした。誰かいるのか?どっちからだ? もう一度確かに、ザリ、というカーペットを擦るような音が聞こえた。後ろだ!
振り返ったが、そこにはやはり延々と黄色い壁が続いているばかりだった。リュックサックが立てたガサ、という音だけが妙に耳に残る。
聞き間違いだろうか。がっかりした時、少し向こうの壁の裏から黒い影がぬっと現れた。蛍光灯に照らされている割にはなんとなく長いような気がしたが、頭から肩に繋がる曲線は間違いなく人型をしていた。こちらに向かっているのか、影には腕のような形も見える。俺は見慣れた人間のシルエットを確認できた喜びで、半ば反射的に声をかけた。
「誰か居るんですか?!」
影は突如として硬直した。日本語じゃだめなのか? 英語? ドイツ語? エスペラント? 英語で尋ねるには……その構文を思い出そうと思考を巡らし、目線を反らしたその瞬間、目の前の壁をすり抜けて、俺が立っているすぐ左側に何者かの手が突き出された。それは黒くて細長くごつごつと骨ばっており、大きさからしても明らかに人間のものではなかった。俺があわてて身をかわすと、手は掴むような動作をして壁の向こうに引っ込んでいった。
どうして手がすり抜けて? そもそも何の手だ? いや、どう考えても人間ではなかったし……混乱する頭でそこまで考えて、重要なことを思い出した。あれ、あの影の人は大丈夫だったのか? 再び通路の向こうに目をやると、影は相変わらずそこに立っていた。そして、ゆっくりとこちらに向かってきているようだった。どうやら無事らしい。じゃあ、あの手は何だったんだ? そんなことを考えていると、壁の向こうから通路へ、影の主が姿を現した。
人間の影を持つそれは、残念ながら人間ではなかった。耳のないのっぺらぼうの頭にやせぎすの体、身長は2メートルほどだろうか。皮膚は濃い灰色で、腕は非常に長く、ほとんど地面に付きそうだった。少し前屈みになった不安定な姿勢からゆっくりとこちらを向き、大きく一歩を踏み出した。ぐらぐらと揺れながらもかなりのスピードで迫ってくるそれを見ていると、こちらの視界まで揺れてきそうで気分が悪くなる。そして、細長い手がこちらに向かって伸ばされた。間違いない。あの手だ。
「……ひっ……いいっ?!!」
変な悲鳴が口から漏れて我に帰り、振り返って走り出そうとしたところ、急に体を動かしたせいで体勢を整えられずに足を捻ってしまった。左足首に痛みを感じる。でも今は逃げるしかない。前方にバランスを崩しながらも右足で地面を蹴ったが、次に踏み出した左足は接地した瞬間に激痛が走った。痛みに顔をしかめ、体が前につんのめる。背後からは、あの化け物が迫るカサカサとした素早い足音が聞こえる。早く、どうにかして逃げなければ。心臓の鼓動が速くなり、血液が脳内を巡ってガンガンと圧力をかける。
なんとか右足を前に出したが、今度は重心が右に傾いた。ダメだ。転ける、と思ったが、右にあったのは例の黄色い壁だった。もう避けるには間に合わない。手を出しても突き指をしてしまうだろう。目を閉じて歯を食いしばり、右肩から壁にぶつかった……はずだったが、俺が感じたのはぶつかる衝撃ではなく、そのまま地面に倒れたかのような浮遊感だった。そして次の瞬間、視界が暗転した。
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