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ケシの花

 オピオイド。

どうもこんにちは、アルカロイド系マドロイドです。

ケシの花と社会性の毒についての話。


 ケシの花の(ニュースの)季節ですね。Twitter の TL でも、違法なケシの花が咲いていたという報告がしばしば見られるようになりました。今回扱うケシは、そのいわゆる「植えてはいけないケシ」というやつです。これが、違法ではあるのですが綺麗な花なんですよね。で、毒まであると。お得なセットですね。見てみたいですよね。ということで、その違法ケシを許可を得て栽培している植物園のようなところに行って、見てきました。ちなみに、ここに書いてないだけで去年も見に行っています。去年はなんか綺麗だな……と思っただけでしたが、今年はなんとなく思うことがあったので、その感想を書きます。

写真が貼れなくて申し訳ないのですが、とにかく美しい花です。檻のように四方を囲んだフェンスの内側に植えられているので、フェンス越しでのご対面です。種類としてはケシ科ケシ属のケシで、真っ白なやつです。一貫種というようです。ゴールデンカムイの鶴見中尉が背負ってるやつですね。大ぶりな純白の花弁が細かく波打っている様子は、まるでドレープがよった小さなウエディングドレスのようにも見えます。で、去年も思った気がしないでもないですが、とにかく思ったより大きい草なんですよね。1メートルは超えていたと思います。下のほうにあの特徴的な葉っぱがパラパラついていて、ひょろっと茎が伸びたてっぺんに花がついています。


 以前、とある人にに麻薬の毒性(概念)について訊かれた時に、社会的な側面が強い毒ではないか、というようなことを答えた記憶があります。オピオイドもアルカロイドで毒ではあるのですが、モルヒネでも致死量は 120~500mg/kg とされ、管理人なら 6g と、場合によってはショウノウより弱いです。それでもショウノウが採れるクスノキが街中に植えられ、モルヒネが採れるある種のケシが法律で栽培すら規制されているのは、やはりその麻薬としての効果に大きな問題があるからでしょう。ということは、モルヒネが毒として社会で問題になるのはその依存性に因るところがあり、言い換えれば社会が存在するからこそ毒として存在するともいえるのではないでしょうか。

あんなに美しい花なのに檻の中に入れられているので近くで見られないのは残念ですが、この考え方でいけば、その檻は謂わば社会性の毒の象徴といえると思います。そう考えると、これはこれで檻とセットの作品のようにも見えてくるような気がします。人類って面白いですね。そして、やはり毒は素敵なものです。社会性の毒を社会から遮断する檻そのものが毒の象徴……これをロマンと呼ばずして何と呼びましょうか。こうなってくると一種の芸術作品ですね。人間っていいなとつくづく思います。ケシとモルヒネと中毒者の皆様は、そんなことは思っていないと思いますがね。

それにしても、乱用がなくなるといいですね。一種の社会的な損失ですもんね。芸術作品の成立には中毒するという事実だけが存在すればいいので、もう中毒者が現れる必要もないですし。それでもまだ問題になっているというのはなぜだろうと思いますが、麻薬というか薬物依存の諸事情は単純なようで複雑でして、ここで書いてると長くなるので割愛します。


 こんな感じで、本日はケシの花と社会性の毒についての話でした。ついでに、檻の話に関連して描いた絵を載せておきます。

先日からサーフェスのペンが壊れてまして、デジタルで描けないんですよね。ペンというか、キーボードと本体の接続に問題があって充電できないという状況なのですが……対応については検討中です。どうなるにしても、しばらくデジタルは描けません。今回も、アナログを取り込む古典的な方法で描いています。本当はペンタブか液タブがあるといいなと思ってるんですけどね……。


それではまた。

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