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7月, 2024の投稿を表示しています

日記:大学生と夏

 ティーンもあと3か月で終わるらしい。だから何だという話だが、3か月後はもうオーストリアの建国記念日で、学祭もあって、……と考えると不思議な感じがする。そうか、この暑さもあと3か月持たないくらいか。日が昇ると暑くなって、昼が長くて、サンダルで出歩いて、空が広くて、夜は扇風機のタイマーをかけて寝て、……というのも、その程度しか続かないのか。そう思うと、まあ夏を楽しんでやるかという気が起きないでもない。  19か。19年生きてきて、それは俺にとって何なんだろう。感覚的には小6と高2くらいで断絶している気がするし、昔のエピソードはどんどん忘れていくし、昔の感覚は持ち合わせていないし、一体今の俺は何者なんだろうか。いや、高1の時の俺は、小5の時の俺は、誰だったんだろうか。一方で、こういう疑問はあるけど、自分は自分でしかないとも思う。それ以外に説明しようがない。その自分をどう説明して、どう目標づけていけるんだろうか。  毎日暑い。一限に向かう時間帯ですら暑い。今は涼しいところにいる。暑いから、家に帰ってもさっぱりしたものばかり作っている。火を使うと暑いので、3日分くらいおかずを作り置きする。冷やしておけるので都合がいい。洗濯物を干す。よく乾いて助かる。畳んで仕舞って、またそのうち着る。大学で勉強する。図書館で本を読み、課題をし、レポートを書く。サークルで標本を作り、環境整備をする。絵を描く、日記をつける、ブログを書く、本を読む、ゲームをする、音楽を聴く。ニコニコ動画が復旧しないから動画を見られない。  特に、何者でもない。ただの一般大学生が夏に生きているだけだ。でも、いつかは何者かになって、何らかの役割を担って、社会で生きていかないといけない。その時、何を目標にして生きていけるのだろうか。何ができるのか、何をしながらなら生きていけるのか、どうやって生きていたいのか。自分の幸福と自然のために、社会的に、環境のために、自分の人生をどう生きていくのか。  ただ漠然とした不安と比較的はっきりした信念があって、大学に入ってからもしばらくは空回りしつつ、ただ肥大化していた。でも、それもバウムクーヘンみたいに丸くなっていたのでなくて、偏りがあるから引っ掛かってスムーズに動けなくなっていった。そういう自分の個性とか専門性を生かして生活する、働く道とはいったい何なのだろうか。この停滞した状況を

自由の発生

 Libero! どうもこんにちは、自由のマドロイドです。 自由とは何か?  自由……このブログのことでしょうか? いや、自由と無秩序ってまた別ですよね。それはともかく、大学生である間は、人生において比較的自由時間が多い期間だといわれることがあります。しかし当事者としては、自分が自由なのかどうかということはよく分からないような気もします。確かに授業時間としての拘束時間は高校より少ないです。なにせ1限は朝の9時くらいに始まるし、そこから16時まで毎日コマが埋まっているなんてこともありません。そう考えると中高生ってすごいですね。この上、朝とか放課後とかに課外をやることもありましたもんね。  とはいえ、課題やレポート、またその他の調べ学習にはかなりの時間を費やしています。休日もどちらか(または両方)は図書館に籠っているし、空きコマや放課後も大抵図書館か教室で課題をやっています。もちろんその課題をすること、この進路を選んだ自分の意思は自由であると思ってはいますが、その選択肢は完全に自由を実現するものだったといえるかというと……悩んでしまいます。また、そうだったとしても、その自由とは何なのでしょうか。  このように自由とは何かについて考えるにあたって、まずは辞書的な定義について調べてみました。おおむね、心のままであることということが条件になっているみたいですね。さらに、広辞苑には 「一般的には、責任をもって何かをすることに障害(束縛・強制など)がないこと。自由は一定の前提条件の上で成立しているから、無条件的な絶対の自由は人間にはない。」 という記述がありました。似たことが現代国語例解辞典にも記載されており、 「人が法律の範囲内でできる随意の行為。」 とありました。どうやら、自由は自分の思い通りにできるという状態ではあるようですが、何らかの制限の上で存在しているという側面があるのかもしれません。  確かに、心のままであるということは個人的な感覚にも合っていますね。確かに自由というと、自分の思い通りになるというイメージがあります。一方で、辞書では二番目に記述がみられた前提がある自由というものは、それに相反するようにも思われます。なんだか不思議なかんじですね。ということで今回は、この心情的な矛盾のような状態を説明できる、現実的な自由の定義について考察していきます。  最終的に僕は、

環境屋見習い

 環境屋の生い立ち。 どうもこんにちは、サステナブルマドロイドです。 独り言。  自分と環境の馴れ初めみたいなものは既に何回か書いている気がしますが、書いてないこともある気がするので、今日は改めて振り返ってみようと思います。  まず、そもそも環境に興味を持つきっかけになっているのはおそらく、幼少期から住んでいた実家周辺の豊かな自然、読んできた本や科学系の雑誌、その頃(中学生くらいまで)所持していた感受性アンテナ、生物、特に植物への薄っすらした興味、あたりの要素です。よくいる「やさしいこども」だったので、生物への擬人化傾向が強かったのか感情移入をしがちでした。それで、海ゴミとカメの問題みたいなものにも強い関心があったのではないかと思います。  あとは単純に自然が好きで、そういうものが身近に在ってほしいと漠然と思っていました。それで、小学校6年の時に将来の夢について調べて発表しなさい、ということになった時に、当時たまたま知った「自然保護官」という職業について調べ、当面のところはこれを将来の夢にするか、と思ったわけです。この辺が、僕の人生と環境が形だけでも結びついたポイントですね。  この自然保護官ですが、要するに国立公園の管理をする人です。一応国家公務員でして、環境省の役人ということになっているらしいです。ただ、どうも調べたことがある海外(ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアあたり)のレンジャーと違い、日本の自然保護官は人数が少なくあまり活発な活動はできていないようです。海外の国立公園、自然公園のサイトには大概レンジャーによるガイドとか体験活動の申し込みをするページがあったり、所属レンジャーの紹介があったりするのですが、日本では見かけたことがありません。  ということで、この職業はなんとなく進路の候補に挙げつつも、現在は確定していません。ただ、とにかく当時はそういう目標があり、国家公務員試験を受けるなら大学に行った方がよいだろうということで、大学に行くということだけは確定していました。  中学校ですが、これが田舎の公立中学校でして、一言で言うとカオスです。天然の天才みたいな感じの人から努力の秀才みたいな人、運動部の活動に打ち込む人から生徒会活動を頑張る人、……あとはちょっと怖かったギャルみたいな人からほとんど教室に来なかった人、そして管理人含む個性豊かな一般人まで、様々

実践幸福論

 人生と幸福の関係について。 どうもこんにちは、幸福のマドロイドです。 より実践的、実用的な幸福の定義について。  先日、 『窓辺の幸福論』 で幸福についての見解を書きました。あれはどちらかというと観念論的というか、机の上に置いてあったものの説明みたいなものだったので、今回は実際の人生に応用していくための実践的な幸福の解釈について考えてみたいと思います。  人生というものは、形容するならば個人が生きる道でして、どの道を選ぶかというのは人生の指針に何を据えるかで決まってくるのだと思います。で、その方向性というものは通常、過程や目標で自分が幸福になれるように示されます。不幸になるために生きる人間というものは今のところ理解ができないものですし、前回も一応人間というものは生物としても社会的も幸福を求めるものだろう、ということになっていました。そうなってくると、人生とは幸福という方角に進むために指針というコンパスをもつことでもあるのかもしれません。  こうやって漫画的に状況を表すのは楽なのですが、いつもそう上手いこと生きていける訳でもありません。我々の周りには様々な制約があり、常に理想通りの道を選べるとも限らないからです。世の中というか社会にはある種の枠が存在しており、それらは大抵不可視な上に気付く術も少ないです。例えば僕が環境配慮行動をしたいと思っていて、フェアトレードの食品を買ったとしても、それらは個包装になっている可能性があります。このような制約は一種の社会構造であり、一般人が一人で何か思ったところで変えられるものでもないし、普通の消費者はそれが行動実現を阻む壁だということにすら気付いていません。  この時、確かにその食品を買わないという選択肢を選ぶこともできるでしょう。しかし、生き物なので食物は何らかの手段で得る必要があります。これはまた、人間の運命であり必然的な制限です。どうしようもない部分とも言えるでしょう。その状態で、自分の理想を実現して幸せになるにはということを考えていかなければならないわけでして、これが幸福論の実践ということです。理想を並べることは簡単ですし楽しいですが、現実で幸福になるためにはもう少し工夫が必要ということですね。  では、この場合はどのような対処法が考えられるでしょうか。まあ食品の種類にもよりますが、野菜なら畑を耕すという方法が考えられます

チョコミント2024

 チョコミン党。 どうもこんにちは、チョコマドロイドです。 今年もチョコミントの季節です。   暑い日が続いていますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。こう暑いと、やっぱり爽やかなものが食べたくなりますよね。やはりこの季節のフレーバーといえば、フェンストーノ公国の国民食でもある(?)チョコミントでしょう。爽やかなミントの香味と甘く芳醇なチョコレートの組み合わせは、夏にぴったりです。  ということで、今年もチョコミントの絵を描きました。  今年の気に入っているアイテムは、キャンディの液浸標本です。ダイスもなかなかよく描けてますね(自画自賛)。今年はサンデーがモチーフですが、ホイップクリームは諸事情で描けませんでした……でも、Jui の頭の上に乗っているサクランボの下のリボンは、なんとなくクリームをイメージしています。  というか、もう3年も描いてるんですね。去年のはどこにやったんだ? という感じですが、こちらに貼ってないだけでちゃんと描いていまして、pixiv のまとめに載せています。ですが、せっかくなので2つまとめて再掲載しておきましょう。  こういう感じで、毎年のようにチョコミントのお菓子をテーマにした絵を描いています。形式としては、だいたい線画に色をつける、塗り絵形式、その時の気分の特殊正装、理系モチーフ、という感じに落ち着いていますね。去年はデジタルでやったのに今年はアナログに逆戻りしていますが……来年はどうなることやら。   というわけで、チョコミント2024 のお披露目でした。ところで、最近またツクダニが増えたので、そろそろこっちにページを作ってもいいような気がしてきました。ですが、相変わらず最新情報は Twitter で見られますので、よければよろしくお願いいたします。 それではまた。 追記 そういえばこっちに Twitter を載せたことってなかったですね……これです。 Twitter(Mado) 創作屋の皆様には積極的にフォローを返したいと思っていますので、よければ是非。