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日記:大学生と夏

 ティーンもあと3か月で終わるらしい。だから何だという話だが、3か月後はもうオーストリアの建国記念日で、学祭もあって、……と考えると不思議な感じがする。そうか、この暑さもあと3か月持たないくらいか。日が昇ると暑くなって、昼が長くて、サンダルで出歩いて、空が広くて、夜は扇風機のタイマーをかけて寝て、……というのも、その程度しか続かないのか。そう思うと、まあ夏を楽しんでやるかという気が起きないでもない。

 19か。19年生きてきて、それは俺にとって何なんだろう。感覚的には小6と高2くらいで断絶している気がするし、昔のエピソードはどんどん忘れていくし、昔の感覚は持ち合わせていないし、一体今の俺は何者なんだろうか。いや、高1の時の俺は、小5の時の俺は、誰だったんだろうか。一方で、こういう疑問はあるけど、自分は自分でしかないとも思う。それ以外に説明しようがない。その自分をどう説明して、どう目標づけていけるんだろうか。


 毎日暑い。一限に向かう時間帯ですら暑い。今は涼しいところにいる。暑いから、家に帰ってもさっぱりしたものばかり作っている。火を使うと暑いので、3日分くらいおかずを作り置きする。冷やしておけるので都合がいい。洗濯物を干す。よく乾いて助かる。畳んで仕舞って、またそのうち着る。大学で勉強する。図書館で本を読み、課題をし、レポートを書く。サークルで標本を作り、環境整備をする。絵を描く、日記をつける、ブログを書く、本を読む、ゲームをする、音楽を聴く。ニコニコ動画が復旧しないから動画を見られない。

 特に、何者でもない。ただの一般大学生が夏に生きているだけだ。でも、いつかは何者かになって、何らかの役割を担って、社会で生きていかないといけない。その時、何を目標にして生きていけるのだろうか。何ができるのか、何をしながらなら生きていけるのか、どうやって生きていたいのか。自分の幸福と自然のために、社会的に、環境のために、自分の人生をどう生きていくのか。

 ただ漠然とした不安と比較的はっきりした信念があって、大学に入ってからもしばらくは空回りしつつ、ただ肥大化していた。でも、それもバウムクーヘンみたいに丸くなっていたのでなくて、偏りがあるから引っ掛かってスムーズに動けなくなっていった。そういう自分の個性とか専門性を生かして生活する、働く道とはいったい何なのだろうか。この停滞した状況を脱却して、自分らしく生きていけるのだろうか。


 突然どうしたんだろう。いつの間にか B2 になってしまっていて、大学は楽しいけどこの先の人生がどうなるのか分からなくなった。18で成人したらしいけど、そんなに人生が変わったわけじゃなくて、まだ自分の中でも対外的にも大人ではない言い訳をできていた。でも次は、いよいよ後戻りできない。責任と自由(という制限)が与えられて、世間的に大人として扱われて、何者かになっていく、社会に出ていく人間として見られる。そうなった時に、俺は俺を認識して保つために、今のうちから考えておきたいと思った。

 あと3か月しかないんだけどな。でも、実は目標ができた。研究者になりたい。方向性としてはまた戻ってきた感じだが、ここ最近で色々あった結果だ。実際のところ、将来どうなるかは分からないが、そういう方針でこの夏は考えてみたいと思っている。夏はまだ長い。


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 期末試験。

どうもこんにちは、一般大学生マドロイドです。

日記でした。


 絶賛テスト期間ですが、相変わらずマド式勉強法をやっています。中身は1時間勉強したら10分絵を描いていいというごく単純なものですが、なんと(トータル)7時間勉強すると1時間絵を描けるんですよ! 勉強時間は実質6時間ですが……考え方の問題です。限界受験生時代にやっていたので、あの時期はやたらと闇みたいな絵を量産していたんですね。

 これは思い付いて描いた絵です。闇みたいな絵シリーズのリメイクというか、あの時の自分への答えとして描きました。もとの絵は確か、pixiv のツクダニまとめの2に載っています。


さすがに毎日あのモードで勉強しているわけではない(トータルの時間はあのときの比にはならない)ですが、相変わらず勉強しながらちまちま絵を描いているというのと、考え事をしながら書くと情報量の多い絵になるよねという話です。なんやかんや目標ができたので、勉強を頑張ります。ということで、日記と絵でした。


それではまた。

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