スキップしてメイン コンテンツに移動

実践幸福論

 人生と幸福の関係について。

どうもこんにちは、幸福のマドロイドです。

より実践的、実用的な幸福の定義について。


 先日、『窓辺の幸福論』で幸福についての見解を書きました。あれはどちらかというと観念論的というか、机の上に置いてあったものの説明みたいなものだったので、今回は実際の人生に応用していくための実践的な幸福の解釈について考えてみたいと思います。

 人生というものは、形容するならば個人が生きる道でして、どの道を選ぶかというのは人生の指針に何を据えるかで決まってくるのだと思います。で、その方向性というものは通常、過程や目標で自分が幸福になれるように示されます。不幸になるために生きる人間というものは今のところ理解ができないものですし、前回も一応人間というものは生物としても社会的も幸福を求めるものだろう、ということになっていました。そうなってくると、人生とは幸福という方角に進むために指針というコンパスをもつことでもあるのかもしれません。


 こうやって漫画的に状況を表すのは楽なのですが、いつもそう上手いこと生きていける訳でもありません。我々の周りには様々な制約があり、常に理想通りの道を選べるとも限らないからです。世の中というか社会にはある種の枠が存在しており、それらは大抵不可視な上に気付く術も少ないです。例えば僕が環境配慮行動をしたいと思っていて、フェアトレードの食品を買ったとしても、それらは個包装になっている可能性があります。このような制約は一種の社会構造であり、一般人が一人で何か思ったところで変えられるものでもないし、普通の消費者はそれが行動実現を阻む壁だということにすら気付いていません。

 この時、確かにその食品を買わないという選択肢を選ぶこともできるでしょう。しかし、生き物なので食物は何らかの手段で得る必要があります。これはまた、人間の運命であり必然的な制限です。どうしようもない部分とも言えるでしょう。その状態で、自分の理想を実現して幸せになるにはということを考えていかなければならないわけでして、これが幸福論の実践ということです。理想を並べることは簡単ですし楽しいですが、現実で幸福になるためにはもう少し工夫が必要ということですね。

 では、この場合はどのような対処法が考えられるでしょうか。まあ食品の種類にもよりますが、野菜なら畑を耕すという方法が考えられます。 しかし、アパート独り暮らし……じゃなかった、ミニ国家ワンオペ君主の状態ではその実現はほぼ不可能に近いでしょう。そこで、自分の状況を思い出してみます。今はスーパーにいるけど、商店街の八百屋に行くという手もあるな、と思うわけです。さらに、この選択肢を選ぶかどうかという問題も発生します。もしかすると、現在時刻は夜で、商店街はシャッターが下りているかもしれません。しかし、冷蔵庫が空なら何かしら買う必要があります。じゃあ仕方ない、今日はこれにするか、ということにもなる可能性は十分にあります。


 この選択は、確かに妥協です。しかし、これで僕の幸福としての理想が失われているとは思いません。こういう判断は理想が存在するから発生するともいえ、考えることそのものにも価値があると思うからです。もちろん、二酸化炭素が減ってほしいなと思うだけでは二酸化炭素は減りません。実際の問題の解決のためには、対策でも適応でも、何らかの行動が伴う必要があります。それでも、現在は行動できていなくてもその志を持っている限りは実現の可能性があり、適度な諦めは達成できない苛立ちを理不尽に他人(や川や絵画)に向けるよりはよほど無害です。

 世の中には前述のように様々な構造的な制約、不可視の壁が存在します。壁が多すぎて、現代人は檻のように閉じ込められている状態かもしれません。その壁を見つめることで、突破策を練ることも可能です。ただ、その実現に関してはいつも可能であるとは限らず、二重三重に別の壁が立ちはだかっていることもあります。そういう時には、別の機会を待って一時的に諦めるということも必要になってきます。

 はっきり言って、この辺の言い訳も半分詭弁みたいなものです。しかし、完璧ではなくても自分を何とか納得させなければ、この社会では生きていけません。我々は人間です。生きていく権利と幸せになる定めがあります。そもそも、生きていなければ環境のことを勉強して考え続けるということもできません。そうしていると、一定の妥協はどうしても必要になります。これが現実です。幸福の実践とは、上手く妥協することなのだと思います。

 これを自覚した瞬間は、自己欺瞞に陥ります。それでも自分が掲げた理想で自分の首を絞めたり緩めたりしながら、ふわふわ生きることが現実です。そういう状態は確かに苦しいですが、常にこのような状態でもないでしょう。余裕がなければこんなことを考えることもできないし、時には想像力を発揮して現実逃避をすることもできます。この総括が、人生という道の歩みである生活というものなのでしょうか。時にはもつれることがあっても、理想として現れる幸福を見つめ続ける限りは、迷うことはないのではないだろうかと思います。


 こういう幸せ、実践幸福を、僕は実践真則の一種だと考えています。すなわち、普遍かつ不変の事実として仮定されている(ということに今のところはなっている)真則(Verego)の一つである幸福、その現実的な姿である実践幸福は実践真則であるということができると思います。世界は主に実践真則で構成されている訳なので、人間が現実的に、日常的に感じることができる幸福が実践幸福であるということにも矛盾はないでしょう。

 僕の幸福は理想の実現ですが、それが常に完璧に上手くいくとは限りません。上手くいかないことの方が多いし、本当に完璧な状態になる事は死ぬまでないのでしょう。それでも、実際にはその幸福を実践幸福として受け取りながら生活し、真則としての幸福も忘れないようにしながら生きていくしかないのです。そういう幸福の解釈が、今のところは僕の「幸福とは」に対する二つ目の答えです。

 こう考えると、やはり哲学とか思想とかいうものは観念的な面も実践的な面も持っており、それを繋いでいるものそのものを哲学と形容しているのかもしれないと思います。人生は哲学だし、環境も社会も、世界全体が哲学なのだという感じがします。こういう場において、皆さんの哲学は何ですか? よかったら考えてみてください。その足掛かりの一つとしては、「幸福とは」という問いを使うことができると思います。

 梅雨が再開し、長雨の兆しが天気予報に見られる今日この頃ですが、たまには雨の音を聞きながらゆっくり考え事をするのも一興ではないでしょうか……とは書いてみましたが、実際問題、なかなかそういう余裕を持った気分で考えられない問いでもありますよね。でも、余裕があって必然ではない分、限界ギリギリで捻り出した思想とはまた別の思想にたどり着くこともあるのは面白いです。よければ皆様も是非。


それではまた。

コメント

このブログの人気の投稿

  管理人の愛は重いらしい。時々言われるので、そうなのだろう。しかし、80億の人間ともっと多くの生物、地球環境、それに自分のと他所の創作キャラの絡みなんかを丸ごと愛せるレベルでなければ、管理人は環境屋をやっていけないようにも思う。ただ、これは別に無理に愛を作り出している訳ではない。愛とは何か。これは、考えること、思うこと、想像すること、形にすること、すなわち思想だと思う。  哲学がフィロソフィア、すなわち知を愛することであるように、愛とは原動力である。そして、哲学という営みの根本にあるのが人間の考えるはたらきであるならば、愛は人間の思索であり思想だろう。何かを考えているとき、そこには何かしらの愛が発生するのではないだろうか。  もしそうでなければ、その時には人間として精神的な危機の状態にあるのかもしれない。何かを積極的に考えて想像することは、人間に特有の行動だ。その原動力が愛なら、愛がなく限りなく機械的な情報処理に近い思考は、人間的ではないだろう。それはおそらく、ほとんど受け身に何かの様式に則って考えている、もしくは生物としての本能に従ってプログラム的に動いているに過ぎないのだろう。  そして、そのような思考を形にすることで、愛はきっと確立される。思考といっても、思想として纏まらない考えや、自分の中に秘めている想いというものもあるだろう。それらが全くもって愛ではないとは言えないとは思うが、やはり何かしらの表現によって形にしなければ、対象に示すことができる愛にはならないのではないだろうか。  愛には形がある。それは、思想を思想として表現できるということである。もし表現できない思考があったとしたならば、それは場合によっては恋なのかもしれない。恋は一方的だ。そして、形をとらない思考、すなわち原動力の源は高カロリーなエネルギーに近いのではないだろうか。恋とは動力源であり、エンジンに対するガソリンである。それ単体では危険で、扱いづらい。しかし、爆発的な可能性も持っているのだろう。  以上から、愛とは思想であり、地球環境と生物のために考えている管理人の愛はやはり地球規模である。1人の人間として、愛していたいと思うし、愛されたいとも思う。贅沢を言えば、誰かの思想を、愛を尊重したいと思うし、自分の思想も誰かに大切にされてほしいと思う。 __________________ ...

窓辺のバレンタイン2025

 ハッピーバレンタインデー!  どうもこんにちは、クッキーマドロイドです。  バレンタインの話。  みなさんチョコ食べてますか? バレンタインですね。管理人は昨日クッキーを大量に作り、チョコを作り、今日は配った残りを食べました。いやー、合法で甘いものを大量に作って食べられる日というのは素晴らしいですね。年に1回くらいあってもらわないと困ります。ホワイトデー? バレンタインに貰えるわけではないので、管理人にはないです……ハイ。  それはさておき、今年も皆様にバレンタインイラストがあります。2025年はパラレルヘーチラグです。  これはヘーチラグのパラレルですね。Twitter にも載せてますが、こちらではその設定や裏話などを語っていこうと思います。まずヘーチラグですが、ついでにここにも載せておきましょう。  こういうキャラです。モチーフは魔法少女(概念)ということで、それぞれ若干不完全な魔法少女をイメージしてデザインしています。サブ要素は芸術家ですが、メインは魔法少女です。オルトは魔法少女擬きって感じですね。キャラ設定を引っ張ってくると、こんな感じです。 名前/正式名称 イメージカラー 武器 好きなフレーバー 一人称/二人称 「自己紹介」 「喜怒哀楽」 喋り方の特徴など (対戦ゲームのキャラだったら?) 「上限解放」 「勝利」 「敗北」 戦闘スタイル ヘーチラグ/Hétillag 暗いオレンジ(明るい茶色) ステッキ アプリコット 私(わたし)/君 「ヘーチラグです~よろしくお願いします!」 「え~やったー!」 「えっ……えええ……?!」 「そんな……そっかぁ」 「すっごーい!!」 語尾は若干伸ばし気味、ちょっとふわっとした明るい口調。 「そろそろ本気でいくよー!」 「お、やった! 嬉しい~!」 「あー、やっちゃった。お疲れ~」 ステッキで殴る近接攻撃。一撃は軽いが連続で攻撃する。素早さは高め、体力はそこそこ。 遠隔攻撃(ステッキの投擲)。投げたステッキを手元に回収する魔法だけ使えるらしい。  ステッキを投げてる時点で、まぁ魔法少女ではないですね。Twitter と pixiv に載せた画像では、ステッキを振りかぶっているものもあったと思います。魔法少女にも色々ありますが……とにかく、そういうところでちょっと印象を...

日記:宇宙船と冬

 高校1年の冬、友達に勧められたのがきっかけでレイ・ブラッドベリを知った。彼は蔵書から短編集を一冊貸してくれたので、それを読んだ。題名は忘れてしまったが、年季の入った文庫本特有の儚さというか、軽やかさと繊細さと重さを凝縮したような本だった。うーん、題名……ざっと著作を調べたところ、『10月はたそがれの国』が印象としては一番近い気がする。  そういえば、夏には 「異邦人と夏」 という日記も書いていた。カミュの印象は夏だが、ブラッドベリの印象は冬らしい。白い霧がかかったような、薄い散乱光で満たされた森の中、ひんやりと冷たい空気、木々の暗い影と足元で音を立てる乾いた落ち葉と、下り坂の向こうの透明な茶色の沼地。そういうイメージがある。昔読んだ本の内容もほとんど覚えていないし、今読んでいる本もまだ途中だが、イメージは変わっていない。  俺は何を勧めたっけ。残念なことに、そういうことを書いていたスマホのメモ帳が機種変更をしたら空になってしまった。『ブンとフン』とかだった気がする。どうしてこんなに人を選ぶ本を勧めてしまったのか理解しかねる。確か、『虐殺器官』、『きつねのはなし』も勧められて読んだ。あとは何だろう。非常に印象に残っている話もあるのだが、題名が思い出せない。内容を言ってしまうとネタバレになるので言えない。  しかし、何だったんだろうな。分からない。ただ、大学に入ってみたら、周りの人間に読書家が大勢いた高校時代は非常に恵まれていたことに気付いた。読書というのも膨大な数がある趣味の1つであって、大学生でも図書館では勉強しかしないとか、参考文献しか読まないとか、そもそも図書館に行かないとかいう人も案外多い。  広大な本の世界で、自分の知らない扉を教えてくれる友人というものは有難い存在だったのだ。そのことに気付けていなかった。あと、今見れば非常に好みの分かりやすい選書をされていると思う。この嗜好に合いそうな本を自分が知らなかったのも、今になって残念に感じる。今の自分なら、彼にどんな本を勧められるだろうか。  なるほど、読書というものは時間がかかり、タイパ至上主義の現代人には敬遠されるのかもしれない。でも、読書で深まる世界があり、読書をする人との交流で広がる世界がある。著者の数、本の数、読者の数だけ世界がある。こういう情報は時間というコストを払ってでも手に入れたいものだと思う。...