Libero!
どうもこんにちは、自由のマドロイドです。
自由とは何か?
自由……このブログのことでしょうか? いや、自由と無秩序ってまた別ですよね。それはともかく、大学生である間は、人生において比較的自由時間が多い期間だといわれることがあります。しかし当事者としては、自分が自由なのかどうかということはよく分からないような気もします。確かに授業時間としての拘束時間は高校より少ないです。なにせ1限は朝の9時くらいに始まるし、そこから16時まで毎日コマが埋まっているなんてこともありません。そう考えると中高生ってすごいですね。この上、朝とか放課後とかに課外をやることもありましたもんね。
とはいえ、課題やレポート、またその他の調べ学習にはかなりの時間を費やしています。休日もどちらか(または両方)は図書館に籠っているし、空きコマや放課後も大抵図書館か教室で課題をやっています。もちろんその課題をすること、この進路を選んだ自分の意思は自由であると思ってはいますが、その選択肢は完全に自由を実現するものだったといえるかというと……悩んでしまいます。また、そうだったとしても、その自由とは何なのでしょうか。
このように自由とは何かについて考えるにあたって、まずは辞書的な定義について調べてみました。おおむね、心のままであることということが条件になっているみたいですね。さらに、広辞苑には
「一般的には、責任をもって何かをすることに障害(束縛・強制など)がないこと。自由は一定の前提条件の上で成立しているから、無条件的な絶対の自由は人間にはない。」
という記述がありました。似たことが現代国語例解辞典にも記載されており、
「人が法律の範囲内でできる随意の行為。」
とありました。どうやら、自由は自分の思い通りにできるという状態ではあるようですが、何らかの制限の上で存在しているという側面があるのかもしれません。
確かに、心のままであるということは個人的な感覚にも合っていますね。確かに自由というと、自分の思い通りになるというイメージがあります。一方で、辞書では二番目に記述がみられた前提がある自由というものは、それに相反するようにも思われます。なんだか不思議なかんじですね。ということで今回は、この心情的な矛盾のような状態を説明できる、現実的な自由の定義について考察していきます。
最終的に僕は、自由には二つの側面があると考えました。それは、「状態の存在」と「存在の確認」という段階で表されます。
まず自由の状態の存在とは、その状況が自由であるという意味での自由です。辞書的定義でいうと、自由は何らかの条件の上で成立している、という種類の記述にあたりますね。このとき自由は相対的なものでして、制限あっての自由ということができるでしょう。しかし、それを自由というには直感的に違和感があるようにも思われます。多くの人がイメージするであろう自由とは、その制限から解放された状態なのではないのでしょうか。条件付きの自由は、本当に自由といえるのでしょうか。
この疑問への答えとなるのが、自由の存在の確認という側面、また両者の関係性なのではないかと考えます。自由の存在の確認とは、自分が自由であると認識できるという意味での自由です。辞書的定義でいうと、心のままであるという表現が当てはまります。これは、それこそ一般的に想像される自由に近いのではないでしょうか。普段私たちが自由と呼ぶのは、何らかの重圧から解放される、また制限が取り払われて自分の意志をそのまま選択できる、といった感じの、自分の思った通りに行動できる状態になったときであることが多いでしょう。
これはさらに、自由という形容は大抵その移行に対して使われ、その状態が長く続くと自由と言わなくなる現象にも通じているような気がします。重圧からの解放も制限の撤廃も、何かしらの押さえていたものがなくなったという状況を表します。この後どうなるかはともかく、今解放された! という感じですよね。で、もしその状態が長く続くようなら、それを自由と認識することは段々難しくなってくるのではないでしょうか。ということは、やはり前段階の存在が必要なのかもしれない、という気がしますね。
ここから、我々が思うところの自由である自由の存在の確認は確かに制限からの脱却を表すが、その前段階にある自由の状態の存在を必要している、ということが、自由という構造なのではないかと考えました。要するに、自由にはやはり何らかの制限が必要だということ、そしてその結果出現する状況により感じられる自由という状態に制限は感じられない、という二つの状態は矛盾せず、むしろその状態が結びついた段階を持っていることこそが自由の定義だということです。このように定義すれば、直感的に感じる自由と自由そのものの構造や意味を結びつけることができるのではないでしょうか。
また、この定義からは、自由は認識されて初めて存在するものであるともいえます。自由の状態の存在は確かに何らかの条件があれば出現する可能性がある(自由の状態の存在)けれど、それは誰かに発見されなければ実際には存在しないも同然です。
例えば、校則があれば校則からの自由が出現する可能性があります。しかし、男子生徒はセーラー服ではなく学ランを着るように決まっていたとしても、男子生徒にセーラー服を着るという発想がなければ、セーラー服を着る自由は生まれません。さらに、そもそも誰も校則を守らずに全員が私服で登校していれば、その校則に意味はありません。校則とそこからの自由は、規則に従う学生がそれを規則として捉えて初めて可能性として意味を持つんですね。また、在学中は校則に制限されていた学生が卒業して校則からの自由を感じることで、その自由の存在が確認されます。
このように、自由の定義は認識を必要としているといえます。そして、前述した僕にとっての自由である、自分で何かを選択する感覚というものは、確かにその背景にある大学という制度や授業の構造と共存するものです。しかし自由の定義から、すべてを包括して自由が成り立っていると捉えることができます。したがって僕の選択は自由だったといえるでしょう。また、このような自由によって自分自身は自由であり、そう感じることで自由を定義できるとも捉えられます。したがって自由は、その「状態の存在」と「存在の確認」という段階を持ち、それらが認識されたときに発生するものであると考えました。
自由って難しいですね。自分で捉えないと分からないくせに、何かの制限を前提にしています。制限があれば自由の可能性があるということは、素敵な自由というものはそこら中に転がっていそうなものですが、それは自分で認識しないと自由として出現しないんですもんね。そう考えると、積極的に自由で居るのは結構大変なのかもしれません。しかも、ずっと存在するわけではない以上は、自由を引っ張り続けている状態は怠惰とも言われるのかもしれません。突然ホラーですね。
フランスの哲学者であるサルトル(1955)は自由の責任について、「人間は自由の刑に処せられている」と表現しました。ここまで盛大でなくても、やはり思想として自由というものを捉えるのは、個人にとっても世界にとっても重大な問題なのかもしれません。なんというか、今回考えてしまったことで、僕は自分の中で自由を見てしまったために、自由に縛られてしまったんじゃないかという気もします。人間というか、人生って難儀なものですね。あー自由になりたい……?
それではまた。
〈引用・参考文献〉
新村出編1998『広辞苑』第五版, 岩波書店.
林巨樹・松井栄一監修2006『現代国語例解辞典〔第四版〕〈二色刷〉』小学館.
林四郎・相澤正夫・大島資生・篠崎晃一編著2006『例解新国語辞典』第七版, 三省堂.
ジャン=ポール・サルトル(伊吹武彦訳)1955『実存主義とは何か』サルトル全集第十三巻, 人文書院.
蛇足。ついでなので、高校の時に描いた絵を置いておきます。自由の処刑風景ってところでしょうか。
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