オカヤドカリを食べたユーチューバーが炎上している。それ自体は自業自得だろ、としか思っていなかったが、その流れでオカヤドカリの飼育法について調べていて、ある販売業者のホームページにたどり着いた。その業者は飼えなくなったオカヤドカリを浜に返す活動(里帰り)をしているらしく、それについて反論してきた人とのやり取りを載せているページがあった。
相手の人は文章の書き方や主張の根拠については不思議な部分もあったが、しかし、まあ言っていることは分かった。確かに、里帰りは返す場所を間違えれば遺伝的に生態系の攪乱に繋がる。完璧に個体と出身を特定できるものでもないだろう。さらに、人間が一定期間育てた生物を野生に返すことは、自然に(いらない方向性で)人為的な影響が及んでいる状態ともいえるかもしれない。ということは、採らないで済むならその方がいいということもいえる。
ただ、こういう生態系への悪影響とかいう科学的なデータに基づく環境全体の価値に関わる話をしておいて、小さな命という言い方をするのはどうなんだろうか、と思う。またこれは俺のエコファシズム的側面が出てしまう悪いところだが、命に大小なんてないし、そもそも命って何なんだよとも思う。確かに、オカヤドカリを捕まえてきて飼うのは人間のエゴだ。しかし、我々人間は日々生物を殺して生きている。優先度というものはもちろんあるが、それはどこまでが許されるラインでどこまでが許されないラインなのだろうか。
生物を飼うことが趣味の人が一定数いる。植物も生物なので、一般のイメージとは違うかもしれないが、俺もその一人だと思っている。趣味なので当然衣食住に比べれば優先度は低く、その程度のことに生物を利用するなという意見もあるかもしれない。しかし、その殺すなという倫理も人間が言う限りは人間の倫理でしかなく、殺さないで納得するのは人間だけである……いや、それが人間の社会に必要なのか。この辺は2年環境学をやってきて、仕方ないのかなと思えるようになってきた。所詮、この社会は人間の社会であり、人間のためのルール、倫理、考え方を必要としている。その違和感は忘れないようにしたいが、実際問題はそんなところである。
趣味で生物を殺すことに関しては、俺の植物採集だってそうだろう。ガーデニングで雑草を抜くのもそうだし。ただ、ガーデニングに関しては人間にとっての環境の改善という意味もあり、それはそれで面白いのでやっている。意味がないわけではない。意味があれば殺してもいいのかというと、ある程度まではそういうことになっているらしい。植物採集は純粋な趣味だが、これもむやみと抜いているのではない。これも言い訳だけどな。昆虫に関しては死んだやつでしか作らないけど、自分の知らないところで死んだものならいいのか? とも思う。俺の標本には学術的な価値なんてないだろうし。でも、人間から趣味を取り上げることにどの程度の正当性があったらいいのだろうか。そういうことをしてもいいのだろうか。
この辺は不思議なもので、昆虫を標本にする人や魚を釣って食べたり食べなかったりする人への倫理的な批判というものはそこまで強いものではなく、だからこそ趣味として存在できている分野だ。しかし、その辺のノネコみたいなものを殺して剝製にしました、というと話が違う気がする。愛護動物に関する法律違反であることや生体そのものの愛好家が多いということも関係していそうではあるが、ネコとチョウに差をつけたのはなぜなのだろうか。人間を殺してはいけない、というのは人間の倫理として自然だが、カブトムシは戦わせてもいいけど闘犬はいけない、という線引きはよく分からない。「クジラは賢いので食べてはいけない」レベルで謎だ。この辺の歴史などには詳しくないが、調べてみれば分かるのだろうか。
また、外来種の草を抜いていても特に何も言われないが、外来種の小型哺乳類の駆除については謎の賛否がある。同じように草抜きが炎上してもおかしくないと思うのだが、植物については今のところはそういう批判を見たことはない。植物だって千切れば汁が出るし、抜けば死んでしまう。そこに生えているうちは生きているし、在来種と競争して勝つこともある。批判されないので公衆の面前でも普通に活動ができてありがたいのだが、殺しているなという自覚はある。ただ、死んだものを素人が処理しても綺麗なことが多いし、何より数がたくさんいて、特に意志らしきものは感じられないので、抵抗は薄いのかもしれない。
それはともかく、生物系の趣味は環境が攪乱しない程度であって、資源量に深刻な影響を与えない程度なら科学的には許容されるだろう。そして、それとは別に人間の倫理というものがある。人間の社会で人間として生きていくためにそれは必要だが、それで制限していいのは同様に社会に対する問題についてまでではないだろうか? 趣味は人間の内面的な部分であり、人間らしく生活するために、楽しく生きるために、幸福のために、個人が取り扱うものである。それについて干渉できる倫理は、その個人の倫理なのではないだろうか?
ということで、まあ確かに里帰りというのは非常に慎重にやってもやらないに越したことはない。そして、そのためには責任感のない人にむやみに生き物を売るのはよくない。しかし、環境に科学的に影響がない範囲で飼育の趣味を楽しむ人を制限することはできない……と、思う。多分。
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出ない旅行記より出す日記。
どうもこんにちは、生物学的マドロイドです。
日記でした。
いやはや、旅行記が滞ってましてすみません。やっぱり夏休みにどうにかしておくべきでしたね。管理人はというと、B2後期も相変わらず授業をたくさん取っているので、忙しさがあまり変わっていないようです。
里帰りといえば、海遊館のジンベエザメの件も話題になっていましたね。実はこの夏に海遊館にも行っているのですが……うーん。いや、水族館って好きなんですよ。大きいガラスの水槽があって、水が入っていて、ちょっと暗くて広いじゃないですか。説明書きを読んだり、魚が泳いだりしているのを見るのも好きですし。大抵クラゲもいますし。イルカショーはあまりにも商業的でちょっと苦手なんですが、イルカショーがイルカショーでなければ見られたのかもなとも思います。
水族館や動物園、植物園に、研究施設や教育施設という側面もあることは理解しているつもりで、僕みたいな一般趣味素人はそのオマケで見学させていただいているのだとは思っているのですが、それでいいのか? とも思うわけですね。本当はどの生物も自然で生きていければいいのでしょうが、そうもいかない事情もあり、すると生態の研究とかも意味があるんですね。では、そうでない生き物はどうなのかといいますと、やっぱり自然の中で生きられる状態に環境を保つことが大事だとは思います。我々はこの発展した技術を利用してインターネット上の動画でも見ておけばいいので……いいのか?
どうしても見たければ(人間の勝手)生息地に行けばよくて、それが不可能なものを見るのは明らかに自然ではないから我慢すべきなのでしょうか。でも、そこに水族館があると行ってしまうんですよね。各施設はその生物の生息環境を再現して展示を行っているのだとは思いますが、それでもやはり限界というものはあります。確かに、趣味に関しては科学的に許容されるならあとは個人の倫理次第とは書きましたが、見せることが目的になってしまうと、どうもその生き物が置かれている状態について考えてしまうといいますか。
確かに命の価値というものは何なのか分からないのですが、価値(?)がないとは思っていないわけですよ。一定程度世間的に評価されていて、存在することに意味がある、みたいな感じなんだろうとは思っています。……そもそも自分の命の価値ってなんなんだろう。あ、人権か。
それではまた。
〈参考文献〉
https://www.ryuuka.com/user_data/debate.php
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