環境問題と人間。
どうもこんにちは、哲学的マドロイドです。
環境問題を考えることについて。
環境屋見習いとして大学生活を始め、はや5カ月が経ちました。最近一週間が過ぎるのが速すぎてビビっています。この調子だと人生100年とか一瞬なんだろうな。相対的には人生における1秒の割合とか小さくなる一方ですしね。
ということで本日は、先日「献血」でお話しした「バーチャルウォーター」「オリジナルカロリー」について書いていこうと思います。事前にお知らせしておきますが、精神状態が不安定な方はお読みにならないほうがよろしいかと思われます。
まず「バーチャルウォーター」です。これは環境省が「仮想水計算機」なる素敵なものを作ってくれています。とりあえずこれを見て軽く絶望しておきましょう。「牛肉なんて食べる気にならない」と書いた訳を分かっていただけるかと思います。
「バーチャルウォーター」というのは、食料を輸入するとき、輸入国がその食料を生産するとしたらどのくらいの水が必要かを示すもので、水資源の役割や動きを観察するのに便利な指標です。日本は食料の輸入量が多い国なので、バーチャルウォーターも年間で127立方ギガメートルを輸入しており、これはアメリカに次いで世界第二位の量です(Mekonnen & Hoekstra,2011)。
食品のバーチャルウォーターが多いということは、輸出国ではそれだけ多くの水を使用しているということを表します。(その場合は「ウォーターフットプリント」になりますが、)輸出する食糧のために使用された水は、もともとは食料を生産した国で消費されるはずだった水です。ところが輸出用の食料の生産のために大量の水を使ってしまうと、その国の人々の食料を生産するために使う水や、生活するために使う水の量が減ってしまう危険があります。
地球上には、衛生設備が整っていなかったり人々が飲料水を得ることが難しかったりする地域が存在し、そのような地域では安全な水へのアクセスを高める必要があります。そのためには、制度や様々なインフラなどの設備を整えるのはもちろん、アクセスできる水の存在する量を増やすことも重要だと考えられます。しかし、そのような国でも輸出用の食品を生産するために貴重な水を使っていることがあります。バーチャルウォーターの輸入量を減らすことは、生産国の水資源を守るために重要です。
一方バーチャルウォーターという考え方について、食品と一緒に水を輸入しているわけではないので生産国の水事情とは無関係だという意見があります。確かにバーチャルウォーターは水そのものを輸入しているわけではないですし、食品そのものに含まれる水分の量は、例えば大豆のような穀物ではそれほど多くはないです。しかし、それを育てて輸出する過程では水やりや器具の洗浄などで大量の水を使用するため、輸入品には生産国の水事情が深く関わっています。その水はまた大気中に放出され循環するので問題ないという意見もありますが、しかし循環した水もまた栽培のために使ってしまっては、生産者の国での水不足は解決されません。水不足だけではなく、本来なら使わないような大量の水を使用すると、地盤沈下など土地に関する問題が起こることも考えられます。
このように、私たちはバーチャルウォーターを輸入して摂取することで、生産国のウォーターフットプリントを増大させ、その水資源問題に関わっています。
次に「オリジナルカロリー」です。これはウォーターフットプリントのカロリー版のようなものですが、対象は畜産物です。畜産物を得るために飼料がどれくらい必要か、それをカロリー換算するとどれくらいか、という話です。何を育てるかによって違いますが、陸上のものに関してはウォーターフットプリントと似たような感じになっています。やはり牛はオリジナルカロリーも高いです。つくづく効率の悪い食べものですね。
同じカロリーでも、栄養の面が異なるため牛肉を食べる場合とトウモロコシを食べる場合を単純に比較することはできませんが、牛肉の主な栄養は他の多少効率のいい畜産物を食べても摂取できます。地理屋の皆さんなら、バングラディシュ、アメリカ、日本あたりの国で、穀物と肉類の消費の割合が並べて表示されたグラフを一度はご覧になったことがあるのではないかと思います。
畜産物の飼料には穀物が多く使われ、特にアメリカでは牛のエサとして、大量のトウモロコシが生産されています。また、ブラジルあたりで増産が進む大豆も、家畜のエサとして大量に使用されます。しかし、それらは大量に生産されても、家畜のエサとして使用してその肉を食べると、大豆そのものをそのまま食べた場合よりは賄える人口は少ないといわれています。カロリーだけ見れば、確かにそうですね。
とはいっても放牧場をすべてトウモロコシ畑や大豆畑にする、というのは現実的ではないです。作物を育てるのに向いていないので酪農をしています……という形式の文章は地理の農業分野ではテンプレのようにお目にかかるもので、これは仕方ないです。しかし、一応ハウス農業などにより、そのような土地での作物の栽培は不可能ではありません。ただ、ハウスなり工場なりの運営コスト(環境影響含む)と放牧のそれを天秤にかけた上での判断にはなるでしょう。
このように、私たちの食卓は世界の食糧事情、環境問題と密接なかかわりがあります。ものを食べて生きているというのは、何か考えだすと大変な問題ですね。
ところで、今の気持ちを一言で表現すると「舌噛んで死んじゃいたい気分」(庄司,1969)です。原作では女子のある種のヒステリーの記号みたいな使われ方をしていますが、そのニュアンスがない文脈では便利なのでこうやって使いがちです。道具が必要ないというのがポイントが高いですね。
それはともかく、この手のことを毎日のように考えていると、大なり小なりこういう気分を抱えて生きていくことになるわけです。極端な例ですが、いまここで管理人が死ねば、一人分の炭素排出量が減るわけです。その程度か……と思うかもしれませんが、呼吸で排出する二酸化炭素に加え、生活するのにもろもろ発生する(発電とか、それこそ食品輸送のあれこれなどの)二酸化炭素排出量も削減できます。日本が削減目標からはみ出して排出してしまっている二酸化炭素量がどのくらいあるのか分かりませんが、日本人何人分なんだろう……まあそういうことです。「本日は暑いのでエアコンをつけて家にいましょう」的なアナウンスを聞くたびに死にたくなります。
でもまだ生きてるんですよね。そうやって言いながらチョコレートとか安売りしてると買ってしまう程度の弱い人間なので。いや、これは食品ロス削減に協力している行動なので……とか自分で言い訳をする羽目になるわけです。実際言われたことはありませんが、「お前生きてる価値ねーじゃん」とか言われたら死んでいたかもしれません。こういう黙って本ばっかり読んできたネガティブ人間ですが、勉強がちょっとだけできたからか虐められたことはないですね。小学校がそういう感じだったというか、テストで点が取れる人とか物知りは偉い……みたいな適当な風潮があったので。ただ、自問はします。どうして生きているのか? 俺が生きていることに価値はあるか?
この問いには、今までは生物学的な答えをあてがって深く考えずに来ました。ドーキンスの「利己的な遺伝子」論ですね。あと、受験期は本当にメンタルが終わっていたので、ニーチェを読んでそれにかなり影響されていました。夕日の美しさに感動して「この人生をもう一度!」とか言ってましたね。かわいそうに。生まれ変わったらT2ファージになりたいです。
しかしながら、管理人も成人しましたし、青年期とはいえ世間的には「大人」なんですよね。だから、あんまり逃げてもいられないと思うんですよ。大人は自分に責任を持たないといけない。自分が生きていることを直視して認識できないといけないと思っています。なので、生きる理由についてきちんと考えてみることにしました。でも、今のところただの穀潰し候補者そのnなので、「あなたの生きる理由は何ですか」と聞かれても「ありません」としか言えない気がするんですよね。それではあまりに現在の状態と矛盾するので、科学的な説明に頼らない、「存在している」ことの説明について考察したわけです。その結果、人間には万人に無条件に与えられる、生命を維持することができる、もしくは存在することができる許可のようなものがあるのではないか、という考えにたどりつきました。
で、この定義を思いついただけで半分満足していたのですが、突如として気づいてしまいました。これって「人権」というやつでは? はい。18年生きてきて、ようやく人権を再発見しました。学校の人権教育の敗北ですね。なるほど人権か……なんか無難なところに落ち着いてしまった気もしますが、今の思考力ではこれ以上の回答は出てこなさそうです。一応管理人も人間なので、この人権を持っている。だから、生きていられる、ということになりそうです。しかし、これは社会的な評価であり、いわば他人の集合体からの許可と言えるでしょう。
そういえば、「尊厳」という言葉もあります。「尊厳死」という形式が存在するように、おそらく人権<尊厳という状況は存在しえます。ということは、やはり本当の「生きる理由」は自分で考えださないといけないようです。(話は反れますが、自殺は社会的尊厳死としての一面があるのでは?と思いました。造語ですが。)あ、人権がダメって言ってるわけではなく、もちろんこれを個人的な生きる理由にしているからどうということはないんですが、自分でやっぱり納得できないからまた探しなおそう、という話です。死ぬまでに見つかるといいんですけどね……。
生きているのって大変ですね。まあ、料理をしている時や洗濯物を畳んでいる時などには、そんなことは少しも考えていないんですけどね。
この機に、昔描いた闇みたいな絵でも載せておきましょう。確か、前期の終わり頃に描きました。
それではまた。
参考資料
・https://www.env.go.jp/water/virtual_water/kyouzai.html
環境省,「仮想水計算機」(2023年9月13日閲覧)
・https://www.wateraid.org/jp/publication/beneath-the-surface
WaterAid,『隠れた水― Beneath the Surface』(2023年9月13日閲覧)
・Mekonnen, M.M. and Hoekstra, A.Y. (2011) National water footprint accounts: the green, blue and grey water footprint of production and consumption, Value of Water Research Report Series No. 50, UNESCO-IHE, Delft, the Netherlands.
・庄司薫,1969,『赤頭巾ちゃん気をつけて』中公文庫
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